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プロテスタンティズムの倫理とジャニーズの精神

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで、ああああジャニーズはプロテスタント*1!! 私の好きになったジャニーズは少なくともそうだった!! と叫んだオタクの戯言が以下続きます。
すごく簡単にいうと、ジャニーズはドキュメンタリー型アイドルではなかったし、そうでないことに意味があったよね、という話をしています。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

は大著だし、専門外でなおかつこれを一読しただけの私が語りうるものでも語るべきものでもないんだけれど、まあ、読後の感想だと思って読んでもらえると、、、、、(それにしては初読から時間がたちすぎている気もする)

 


ヴェーバー曰く、カトリックとプロテススタントとで「無条件に異なる決定的な点」プロテスタント「教会や聖礼典による救済を完全に廃棄したということ」(p.157)だと言う。

めちゃくちゃ自己解釈で申し訳ないし、その後にカトリックプロテスタント両側からなされたであろう批判を読んでない馬鹿の言うことだから真に受けないで欲しいんだけど、私は次のように解釈した。
カトリックでは、教会の言う通りに、「神様の望むこと」をすれば、最後の審判の日に救われる、と言う。
それに対して、プロテスタントでは、神様の行動は我々が影響を与えうるようなものではない、とする。

つまり、神様は偉大すぎて、私たちがどんなに日常に善行を積もうが、その決定に介入することはできないし、むしろ私たちが動作をするときには、すで神様はその人間を救済するか否かを決めてしまっている、と言う。プロテスタントにとって救済は現在完了形で、すでに決まっていることなのだ。

そしたら、「救われる時は救われるし、救われないとしてもすでに決まってることだから怠けていいよねっ」となりそうなものだけれど、ヴェーバーに言わせてみるとそうではない。実際にプロテスタントの方がカトリックより勤勉なんだと言う。

じゃあそこにある矛盾の原因は何なのか。
プロテスタントはさっき述べたように「救済はすでに決まっている」と考えている。で、そう考えたときに「自分がもし神様に救済される人間なら、こうやって行動すると神様は定めているだろう」と考える。それがプロテスタントの禁欲的姿勢につながるんだと言う。

プロテスタントの考える神様の望むであろう行動と言うのは極めて合理的で、だから資本主義との相性がいい。でも、この時プロテスタントは一つだけの非合理性を持っている。それは初めに仮定した「自分がもし神様に救済される人間なら」という部分だ。ここだけに根拠がなく、ここだけは、プロテスタントの非合理性が現れるところだ。プロテスタントはその信仰心を除いて全て合理的だが、最初の信仰だけに非合理性が伴うのである。

 

なんかアイドルに関するブログであることを忘れそうな話が続いたけれど、ここからが本題です。

結論から言うと、「秋元康系アイドルはカトリックで、ジャニーズはプロテスタントだ(った)」というのが今回のブログでの私の言いたいこと。

秋元康系のアイドル(ここで想定しているのはAKBをはじめとする48グループ、乃木坂・欅坂・日向坂など)の特徴は何か、と問われればその人数でもなく、音楽でもなく、私はそのドキュメンタリーだと答える。秋元康の特徴は何か。それは彼がプロデューサーであると同時に、作詞家であり脚本家であることだ。

アイドルのドキュメンタリーというものが秋元康以前に存在しなかったとは言わない。それは確かに存在していた。ただ、秋元康が最も効果的に、アイドルにドキュメンタリーを導入した。それはさながら発明だった。48・46以後のアイドルがそれ以前のアイドルと異なるのはその距離の近さよりも、そのストーリー性だと思う。アイドルであることは、筋書きの一人物であることになった。
秋元康系のアイドルは、秋元康が望む、想定するキャラクターであれば救済されるのだ。

どういうことか。秋元康のプロデュースするアイドルでは、秋元康が想定した筋書きがある。でもその役名はアイドル1、アイドル2、という風にきっと決まっていない。その座をかけてアイドル(の卵)は争うのだ。その役割に最も適した顔、体型、過去を持っている人間が救済される(=推される)。そして入った当初は秋元康の描く物語に十分に適応しておらず推されなかった人間も、例えば握手会での健気な努力によって、例えばダイエットをして体型を変化させることによって、例えば過労と言われるまでダンスレッスンをすることによって、救済されることがある。
その意味で秋元康の物語の中にあったアイドルが「努力は必ず報われる」と言ったことには意味があったのだ。彼女にとっては、あるいは秋元康の物語の中にある者にとっては、「努力は必ず報われる」ものなのだ。
これは、秋元康が描いたストーリーに則って動くことだと思うし、神様の望むことは暗示されていて、それをうまく汲み取ってその通りに行動できた人間が救われる、ということを指す。

 

それに対して、ジャニーズはどうか。

ジャニーズを象徴していると感じるエピソードがある。それは「ジャニーさんは、履歴書を見た時にその子の十年後の顔がわかる」というものだ。そんなばかなことあるかよ、と思うんだけれど、アイドルたちは割とそれを本気で信じている。何度かこの話が真実らしく語られるところを見たことがある。

つまり、アイドルたちはジャニーさんの中では「出会った当初に」救済されるかどうかが決定済みであることを了承している、ということだ。

それ以後にだって努力はしなければならない。努力をしないとステージには立っていられない。でも努力をしてもステージから去らざるを得ない人はいる。そういう時に彼らが使う語彙は「努力をした人だけが」あるいは「正しくあった者だけが」残った、というものだ。*2
なぜこういう語彙が使われるのか。

それはジャニーズアイドルは「ジャニーさん(もしくは音楽の神様とかその他ジャッジをするもの)が自分を救済すると決めているのであれば、こういう行動をとるべきだろう」という行動原理の下に動いているからではないか。


私の大好きな錦戸亮さんはちょっと前までジャニーズアイドルだったわけだが、彼はよく「そういう自分でいられたらみなさんも好きでいてくれると思うので」と言い、「こんなん好きでしょ?」とファンの好みに寄せることをいつも嫌った(今もだけど)。

それは、明らかに示された解に従うカトリックのやり方ではない。むしろ、神様の解はわからない、わからないから努力するしかないし、それが神の描いた道だし、きっと救済は自分の身に降り注ぐだろう、というプロテスタントの信仰にこそ、似ていると思う。


彼らジャニーズアイドルには、解は示されていない。それは、彼らがカトリックではなく、彼らにはカトリックの意味での経典や戒律は存在しないからだ。例えば結婚をしなければ救われるわけでも、全てを決めてくれる聖職者がいるわけでもない。彼らは「自分は救済される」という不確かな未来を信仰することによって、自ら自分のキャリアを選択することを迫られる。それはキャリアといった大きな選択だけでなく、例えば今日髪を切るとか、例えば少しだけ頑張ってボイトレするとか、逆に今日は疲れたからダンスから力を抜くとか、そういう小さな日常の選択も含まれる。
ジャニーズアイドルは自らの選択をいつだって迫られているし、それが自分の描いた未来への一本道であることを背負わなければならない。

その意味でジャニーズアイドルは脚本のあるドキュメンタリー型アイドルではなく、すでに決まっている救済に向けて自ら決断し、自ら泳ぐ人間でなければならない。

 

ジャニーさんの死後、あるいはここ数年のジャニーさんの弱っている状態でのジャニーズがそうだったのか、私には判断がつかない。でも私の好きになった、私が大好きだと思って見てきたジャニーズは、少なくとも、自らの選択を自らして、決してドキュメンタリーの中に動きを制約されたものではなかった。


きっとこれからもそうであってくれますように、なんてオタクは祈るしかできないわけだけれど、でもきっとそうであってほしいな、と思う。


2019.11.29.
スズキアイコ

*1:資本主義と相性がいいってとこも含めて

*2:KAT-TUNは四人になったときかな?かなんかに「怒られてた人が出てって、真面目だったのが残った」みたいなことをしゃべくりかなんかで言ってた、気がする