jonny's 関ジャニ KAT-TUN

好きの枯渇

※今年の初めに違うところで書いたものをこっちに移しました


好きな気持ちが枯渇したときのあの惨めさには何者も勝てないんじゃないかと思う。
わたしは推しに向ける感情が何よりでかい。どんな男に女に人間に依存しているときより、アイドルを好きなときが一番精神的に安定しているし、没頭する。アイドルしか見えなくなる。彼が何を見て何を感じてどうやって生きているのか知りたいと願う。そういうことをしているとお金も時間も人間関係も推しの周りで完結するようになる。前の投稿で書いた元親友だって、最初の数年(わたしたちの蜜月と言うべき期間)は同じグループの同じアイドルを推していたし、この夏わたしは久々に推しを好きな人とLINEを交換したり会ったり飲んだり、とにかく交流を持って、逆に他の友だちと会うことがほとんどなくなった。一人暮らしをしたくて貯めていたお金が会社の補助で浮く(予定)分、卒業旅行に使うでもなく、また自己研鑽に使うでもなく、推しに注いだ。わたしの全てが推しの周りで完結している。推しを推していて辛いことも悲しいこともあるけれど、こんな満ち足りた毎日はないんじゃないかなと思う。
好きという気持ちが枯渇したときの惨めさは、こういう没頭に起因するんだと思う。
推しを好きじゃなくなる理由はいくつかあると思うけど、①他の人を好きになる、②私生活が忙しくなる、③好きという気持ちが枯渇する、の3つが複合的に関わり合って推さなくなる、気がしている。前者2つについては、わたしにとって、あんまり問題ではない。でも、しんどいのは3つめだ。好きという気持ちの枯渇。飲んでも飲んでもなくなることがないと思っていた井戸が枯れたような、いや、そんなもんではなくて、うん。急に枯渇する好きという感情。そうすると、推しから自分の気持ちが離れていることを自覚しながら、しばらくの間、自分のお金と時間と人間関係のために言い訳しながら推しを推してしまう。こんな惨めなことってない。あのとき推しに使ったお金も、過ごした楽しい時間も、一緒に叫んだ友だちも、なくなったりなんてしていなくて、わたしの手の中に何にも変わりなくあり続けているのに、わたしの気持ちだけがない。キラキラしていた時間もお金も人間関係も全て、否定しないでは、今のわたしの気持ちが肯定できない。
何年か前に「同期がわたしの言うこと聞かないし文句ばっか言うんですけどどうしたらいいですかねー」と大人に軽薄な相談したことがある。そのとき大人は「何をしたいか言わせてしまえば自分でその仕事を勝手にやるよ、自分で言ったことをなかなか人は覆せないから」と言っていて、そんなもんか〜とわたしはそのとき聞き流したんだけども、そんなことを思い出す。
わたしはわたしが口にした推しへの愛やらわたしが支払ったお金やら時間やらを肯定するために覆さないために推しを推しているふりをしばらくしてしまうのだ。そういうことをしていると、だいたい、①と②のどちらか、もしくは両方がわたしを襲う。わたしはこれ幸いとその舟に飛び乗る。
そうして、ベッドに積まれた大量のCD、雑誌、楽しかったライブのグッズをぼんやりと眺める。わたしは何をしていたんだろう。この時間はなんだったんだろう。もっとやるべきことがあったんじゃないか。アイドルを好きなうちはそれ自体に意味があったはずなのに、何よりも重要でわたしにとって必要な体験をしたはずなのに、急に色あせて、なんの意味もないものだったように思える。ただの浪費だったように思える。わたしがアイドルを好きで、手元にある時間とお金とを全てそれに使っていた間に、同期は海外でインターンをしたり、資格試験の勉強をしたり、団体を立ち上げてりしている。わたしは何をしていたんだろう。一度だけジャニオタ自体を降りようとしたことがある。ジャニーズのグッズをまとめて引き取ってくれるところにダンボールいっぱいの青春を送って、「1400円」という査定結果が返ってきた。
そういう結果があるとわかっているから、好きという気持ちが枯渇したってわたしはしばらくそんなはずはないと足掻いて、推しのせいにしてみたりして、忙しさを作ってみたりする。その移行期間ほど惨めなものはないのだ。
だから、好きな間は、好きという気持ちが潤沢に無限に湧き出てくるような気がしている間は、推しを推してるこのキラキラした気持ち、時間を大切にしたいし、それはわたしにとって意味のあることなのだ。そう言い聞かせて、またクレジットカードを切った。卒論を書き終わったらバイトをたくさんしようと思う。推しに会いたい。


2020.1.1 スズキアイコ

棺桶に入れて欲しい円盤5本

ジャニオタをやり始めて、早いものでもう10年目となった。その間にみた円盤がいくつあるかもわからないし、正直に言うと一部はもう売り払ってしまってもいるんだけど、やっぱり何回も見直してしまう円盤というのはあって、もし今私が死んだら一緒に燃やしてほしいと思ってるのが何枚かある。それを、「棺桶に入れて欲しい円盤5本」として挙げてみる。

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↑選定元の一部。偏りがすごい。


まじで特に意味もない感想ブログです。脳みそ空っぽにして読んでください。

以下が私の棺桶に入れて欲しい円盤五選です。

  1. KAT-TUN「LIVE Break the Records」 (2009)
  2. KAT-TUN「COUNTDOWN LIVE 2013」(2013)
  3. 関ジャニ∞「KANJANI’S ENTERTAINMENT JAM」(2018)
  4. Travis Japan「素顔4」(2019)
  5. 番外編:KAT-TUN vs 関ジャニ∞「DREAM BOYS」(2006)

 

※括弧内はリリース年ではなく収録年。

1. KAT-TUN「LIVE Break the Records」 (2009)

冗談抜きで人生で一番見た円盤。
全部好き、ほんとに好き、語彙を失うくらい好き。
冷静に考えて「RESCUE」「ONE DROP」「LIPS」「喜びの歌」「Keep the faith」「DON’T U EVER STOP」までノンストップかっこいいの嵐でこれが全部オリジナル曲なのやばい。KAT-TUN史上もっとも規模のデカかったライブだから本当に金がかかっていて、特効!特効!また特効!!っていう勢いのすごさも感じる。
私はまじでジュニアを2010年以前、以後に分けるべきだと思ってて、このライブはめちゃくちゃジュニアも多いし、これを見ちゃった子たちはそりゃあ、KAT-TUNに憧れるしかないよなあと思う。
ソロコーナーも各10分くらいとられてめちゃくちゃ長いことやっていて、それぞれの世界観に圧倒される。1582の亀梨さんは定期的に二次オタ界隈でバズってるくらい、本当にこの世のものとは思えない美しさ。私は花の舞う街もめちゃくちゃ好きで、高校の時弾けもしないピアノを練習した覚えがある。
「WATER DANCE」「MOON」が同じアルバムに収められて同じ公演で演られたという奇跡。美しすぎるだろ。MOONでセンター割る仁亀、二億回見たな……。

 

2. KAT-TUN「COUNTDOWN LIVE 2013」(2013)

このライブは本当にセトリが好き。聖が抜けて最初のライブだったわけだけど、4人時代の色が表れたライブだったなと思う。赤西さんがいなくなってからのKAT-TUNは爽やか路線に舵を切ったかに見えたけど、このライブの死ぬほどかっこいいKAT-TUNが本当に好きだなと思ったのをよく覚えてる。
懐古メドレーはもちろんいいんだけど、私がこの円盤が特に好きなのは「GIMME LUV」〜「EXPOSE」のど頭の並びと「PHOENIX」「FIRE and ICE」のかっこよさ。バッキバキのガッチガチにかっこいいKAT-TUNがいて、この時期ダンスもかなり力を入れていて、かっこいいしかないなと思う。あと単純にこの時期のビジュが全員好き。
懐古メドレーを改めて見直していて、ジュニアが世界一やりたいセトリじゃんって思っちゃった。ジュニアがやりたい曲が全部オリ曲なKAT-TUNやっぱ強いよ〜〜。

 

3.関ジャニ∞「KANJANI’S ENTERTAINMENT JAM」(2018)

エイトはめちゃくちゃ迷ったけど、やっぱこっちかなあ。去年の「十五祭」はやっぱり胸がはちきれそうになる思い出の円盤だし、「JUKEBOX」のど頭のブリュレと宇宙に行ったライオンのすばるくんのことは語りたいなと思う一方で、墓の中で最後の審判を待つまで(?)、これしか見られないって円盤を選ぶんだったらやっぱりこっちかなあと。
本当にただただかっこいいんだ。
セトリがまず最高。私が出会った関ジャニ∞さんたちはGRE8EST頃のバンドをやる関ジャニ∞さんたちだったので、関ジャニ∞さんのかっこよさをバンドに見てるところがあって、その意味で前半の怒涛のバンドセトリが最高に好き。「象」「Traffic」「生きろ」の流れ、就活時期死ぬほど見た。
とか言いつつダンス曲も好き。「Answer」「ノスタルジア」は、30代の関ジャニ∞さんたちだったからこそ、かっこよかったんじゃないかなあ。ノスタルジア好きすぎてもしこれがVHSだったら絶対擦り切れてた。それくらい見た。たまにCD流して今でも泣く。泣くほど好き。

 

4. Travis Japan「素顔4」(2019)

ここでこれがくるの、我ながらびっくりなんだけど、私、本当にこの円盤好きなんだ……。
とか言いつつDisc1の「8.8.ジュニア祭り」は1回しか見てないんだけども、Disc2「〜ぷれぜんと〜」はそれだけですでに元取れるくらいは見た。
Travis Japanの円盤は今のところこれしかないからこれを選んだ、わけではなく、今まで見てきた死ぬほどある円盤の中で、この円盤が好きなの。ジュニアだからやっぱり一公演にかける熱量がすごいし、その上で実力がやばい。セトリの組み方も、もちろんパフォーマンスも、本当にいい。これが今プレミアなのが勿体なさ過ぎて、もう一回一般販売してほしいなと思っている。いろんな制約で通年が無理なら毎年正月だけ一般販売とかでいいから売ってほしい。
私はEndless SHOCKも好きなので「ONE DAY」のハモリの美しさに何度でもやられているのと、「Vanilla」の演出のうまさに何度だって感嘆している。全曲通してダンスが上手すぎるし、この現場にいた人たち全員きっと幸せだっただろうな、ってこっちまで幸せになる。

 

5. 番外編:KAT-TUN vs 関ジャニ∞「DREAM BOYS」(2006)

ブレコのことを「人生で一番見た円盤」と書いたけど、たぶん二番はこれ。
KAT-TUNはこのドリボの千秋楽の日にデビューを発表したから、まさしくデビュー前夜。亀梨和也という人間に対してジャニーさんが書いた当て書きを、その後亀梨さんは内面化していくように感じているんだけど、その亀梨和也とカズヤとが溶け合ったような危うさがあって、何度だって見てしまう。
私は二幕第一場の「静かすぎるのは なぜ」から始まる曲と、最後の「挑戦者」が好き。あと、最後の「絆」はなんでかわかんないけどめためたに泣いてしまう。
ショータイムも好き。「ha-ha」の赤西仁のかっこよさは後世まで語り継ぎたいし、「SHE SAID」の「早く戻ってこい」は仁亀のオタクにとっては夢。


というわけで、人生の5本を書き残したので私が死んだら一緒に円盤を燃やしてください。よろしくお願いします。


スズキアイコ

Ride On Timeに感じること——語られるということ


何もこういうめんどくさいことばかり考えているわけじゃないし、推しのブログについての萌え語りもあれば最近手に入れた円盤への賞賛だってあるんだけど、最近は語ること、言葉を持つことの暴力性におののいてしまって何も書けないでいる。なんでこんなことをのっけから書いているかというと、今回したい話と根幹は一緒だからだ。

Ride On Timeという番組がある。今回は、その番組が(特にかつての「ザ・少年倶楽部プレミアム」と比較して、あるいは「24時間テレビ」との類似として)どのように暴力的なのか、という話をしたい。

Ride On Timeというのは、確か2018年頃に始まった番組だったと思う。フジテレビの深夜、ジャニーズの1グループ(あるいは一人)を主人公として、だいたい4週にわたって特集される。上は堂本光一、下はジュニアまで結構幅広い世代にわたって密着していて、語り手は同じくジャニーズの風間俊介だ。
ジャニオタでも上の世代を推している人はあまり知らないだろうからもう少し踏み込んで説明しておくと、そこで語られるのは「センターとしての苦悩」や「賞賛とともに批判を受ける立場でのプレッシャー」など。リハーサル映像、楽屋、舞台袖、ドラマ現場、いろんな場面についているカメラは、メンバーに直接インタビューすることもあれば、その会話を写しているだけのこともある。その映像に、風間くんのナレーションで、場面の解説やアイドルの感情を読者に推測させる言葉が語られる。

最近のジャニーズのストーリー売りが過ぎる、というのは好みの問題もあるけど、倫理的な問題もたぶんに孕んでいる。例えば、少し前にリアリティーショーに出演していた女性が亡くなった。私はSNSでジャニオタをほとんどフォローしてないので推測でしかないけど、あの時、Ride On Timeを想起したオタクは私だけじゃないと思う。

そして、あのリアリティーショーに通じる、ジャニーズにとっては新しかった、ROTに特徴的な暴力性は、「語られること」なのだと思う。

最近のアイドルグループでは、ドキュメンタリー映画が結構な確率である。でもそれって、ジャニーズにはつい最近までなかった文化だと思う。むしろ、舞台裏を隠すことを美学とするアイドルは、特に上の世代に多い。光一さんとかそういうイメージ。
例えば、少なくとも私が担当していた頃のKAT-TUNは一度もツアーメイキングがついたことはなかったし、他のグループでツアーメイキングやメンバーの語りなどが特典としてリリースされるグループでもそれにナレーションがつくようになったのはつい最近だったと思う。
じゃあジャニーズって一切のストーリー売りをしてなかったのかというと、そんなことはなくって、Myojoの一万文字インタビューはじめ、いろんな雑誌でエモいインタビューが行われてたし、NEWS の美恋魂円盤とか、関ジャニ∞のGR8ESTとかは完全にそっちだった。中でも、「ザ・少年倶楽部プレミアム」はROTに似てる番組だと思う。というか、たぶんROTは太一くん司会少プレじゃなくなってから語られなくなったジャニーズの「ストーリー」を再び語りなおそうという番組なんだろうな、と思う。
ただ、少プレとROTでは決定的に違うところがある。
それは、少プレでの語り手はあくまで、「本人」だったのに対し、ROTの語り手は「風間俊介」であるということだ。そんでこれは、今までの数々の円盤やらインタビューやらで語られてきたストーリーにも言えることで、基本的にジャニーズの物語は少なくとも形式上は「本人の口から」語られるものだった。それに対して、ROTで語り手は本人でありえない*1

ROTでデビューからずっと密着されているKing & Princeがある雑誌で「俺らの物語薄いのな」みたいなことを話していた。あの番組で「〇〇の涙」と煽られた子が「今注目されているのは俺らじゃなくて俺らの立場」みたいなことを言っていた(どちらも出典が思い出せないのでニュアンスです)。そういう違和感を持っている子たちがいる。でも彼らは言葉を奪われている。彼らはカメラに向かっていま考えていることを論理だって話すことではなく、感情をむき出しにして喧嘩することを求められている。その喧嘩の訳について解説することも弁明することもできない。ナレーションが全てを語る。私がさっきから言ってる「語る」という暴力はこれで、自分の感情や論理を自分の言葉で語れず、人に語られることは、暴力と呼んで差し支えないと思う。その暴力は、先にあげたリアリティーショーのように、ときに人を限界まで追い詰める。問題は「語り方」ではなかったと私は思う。問題は「語られる」ということそれ自体だったのだと思う。

ただ、上にあげた2組については、まだ他の場で違和感を示せるだけ良かったんだろうな、とも思う。
本当に大変なのは、「語りうる言葉を持たない」子たちだ。

ジャニーズにいる子たちは、みんながみんな、頭がいいわけじゃない。頭がいいことはあの場所で勝ち抜くのにプラスに働く要素ではあるけど、必要条件じゃない。アイドルには多くの要素が求められているけれど、ジャニーズでは「書類審査」と「(ダンスでの)オーディション」しかないわけで、それに頭の良さを試す試験はないわけで、だから頭の良さが分散しているのは当たり前のことだと思う。
その上、一般に言われる「頭がいい」(東大京大を卒業してるとかそういうの)人でも、自分の感じていること、考えていること、を言葉にできる人はそれほど多くない。「自分の言葉で語る」ということには技術と苦労がいるものだからだ。語りうる言葉を持たない子たちが、アイドルの中には多くいる。

しかも、語らないことには自分の感じていること考えていることは、自分の中でも気づかないうちに消えてしまいかねない。もやもやとした違和感だけが積み重なっていく感覚があるのは、たぶんアイドルだけじゃなくって私たちもそうで、私はそれを言語化できると結構落ち着く場合が多いんだけど、そういうことができるようになったのは大学でちょっと本を読んでからだったし、それまではそのモヤモヤをどうしていいかわからないで人にぶつけたり死ぬほどチョコ食べたりすることで解決してた。

話が逸れた。

私が危惧しているのは、ROTで「語られた」アイドルが、「自分について語れない」人間だった場合、他人の言葉を内面化しないだろうか、ということだ。
ROTで語られたグループのストーリーの中での自らの役柄を「真実」だと思い込んでしまいはしないだろうか。そのストーリーの中に自分を閉じ込めることは、彼を追い込みやしないだろうか。

自らの言葉を持つアイドルなら、苦しんでもその言葉をはねのけることができるかもしれない。でも自らについて語れる子、言葉にできる子ばかりじゃないのは、見ててわかる。私が最近推している子は自らについて語ることができるけれど、そのグループの別の子は、自らの苛立ちや哀しみすら他人に指摘されないと感じることができない。自分の苛立ちや哀しみを感じられない子が、他人に語られて、それを内面化せずにいられるだろうか。

ただ、まあ、言葉を持つこと、他人の人生についてその人に代わって語ることの暴力性は、何も、今になって初めてわかったことじゃない。ジャニーズが毎年やってて今年もどうやらやるらしい、「24時間テレビ」はジャニーズアイドルが「障がい者」の物語を代わりに語るもので、そのスタイルがもうずっと、ずっと批判されてきた。アイドルは「語る」という暴力を行使する媒体としてずっと用いられてきて、今度は、「語られる」対象になった。構造自体は新しいものではなく、アイドルの立場が変わっただけ。

あるいは、私が過去にしてきたような解釈ブログも根本的には同じことで、オタクがアイドルについて「語る」ことも、暴力の一つだし、よくある解釈本(非公式に出版されているジャニーズ研究会的なところが出しているやつ)もおんなじことだ。

ただ、それらは、ずっと非公式のものだった。オタクの言葉や解釈本は、アイドルにとって「勝手に語られる」ものだった。ROTはアイドルにとって「公式の解釈として語られる」ものなんじゃないか、それって危険じゃないんだろうか、っていうのが、怖い。

まあだからって非公式に語ることの暴力性から私は目をそらしていいんだろうか、って葛藤もあるから私は今感想エントリーですらあげていないわけだけど、とりあえず少なくともROTは危ういと思う、っていう話でした。


2020/7/26
スズキアイコ

 

 

*1:これは何も、風間くんがその他の後輩アイドルに「語る」という暴力を行使しているというわけではなく、あの番組自体にそういう構造があるという話です

Connecting the dotsとジャニーズ、オタ卒

早いもので入社から3ヶ月が経つ。その間に、たぶん10回は「Connecting the dots」の話を聞いた。同じ人からじゃない。いろんな先輩、上司、同期から繰り返し聞いた。私は今までの人生でビジネス本というビジネス本を避けて生きてきたのでこんなのは初めてで、少し驚いている。やっぱり資本主義は宗教だなと思った。

Connecting the dotsのことを知らない私みたいな人のために説明すると、このConnecting the dotsというのは、スティーブ・ジョブズというAppleでなんかすごい成功したらしい人が自身の出身大学の卒業式で行った講演の一節で、ビジネス界ではどうもよく引用されるらしい。


Steve Jobs' 2005 Stanford Commencement Address

上の動画では、5:00前後からよく引用される内容が始まる。
和訳は適当なので気になる人は自分で調べてほしい。

Again, you can’t connect the dots looking forward; you can only connect them backwards.

繰り返すが、点を事前につなげることはできない。点を繋げられるのは終わったあとだ
So you have to trust that the dots will somehow connect in the future. You have to trust in something, your gut, destiny, life, karma, whatever.

だから、君はその点が将来どうにかして繋がると信じなければならない。君は何かを信じなければならない。勇気、運命、人生、カルマ。なんでもいい。
Because believing that the dots will connect down the road will give you the confidence to follow your heart, even when it leads you off the well worn path, and that will make all the differences.

なぜなら「点が道として繋がるだろうと信じること」こそが君の心を追う勇気をくれるものだからだ。たとえ、それが君を使い古された小道に導いたとしても。それこそが違いを生むものだから。

やばくない? これが宗教じゃなくってなんなんだろう。
直接的に言うと、「君は何かを信じなければならない。勇気、運命、人生、カルマ。なんでもいい。」のところ。きっとこの人はプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神くらいは読んでると思うので、自覚的に資本主義社会に必要な人材としての「信仰」を持つことを聴衆に求めている。非合理的な信仰を持つことこそが、資本主義社会で合理的に成功をおさめる鍵であると。引用した部分は最後に「make all the differences」と締められている。成功するということは当然に「他者と違いを作る」ことであり、他者との違い、優位さにこそ金が支払われる。
まあそんなこんなで、このスティーブ・ジョブズのスピーチを聞いていると、私はジャニーズJr.を思い出さずにはいられないのだった。


ジャニーズではよく、努力について語られる。ジャニーズはマジで残酷な世界で、「頑張ったから」「実力があるから」ではなくて「野球ができる」とか「たまたまそこにいた」とか「バレーボールがうまかった」みたいな理由で、みんなが目指しているもの(デビューとかセンターとかね)を手にいれる子が、ままいる。そういう子がいるということは、「努力が報われなかった子がいる」ということでもある。

例を出そう。
……誰を出しても角が立つなと思って「例を出そう」と書いてから10分くらい固まっている。いろんなものに配慮して名前を出すのが面倒なので、それぞれの心に思い浮かぶ「浮かばれない子」と「謎に超出世してる子」を思い浮かべてほしい。浮かべましたか?

その「謎に超出世してる子」は、その後死ぬほど苦労したりすることもあるが、私が思い浮かべた子はそうじゃない。少なくとも今のところは、ぷかぷか心地よさそうに泳いでいるし、これから先食うものに困ることはないんだろうなと思う。彼だって努力をしていないとは言わない。でも、私が思う「浮かばれない子」と比較したら、正直、もっと頑張れんだろ、と思う。比べるものではないのは百も承知、でもここではあえてそれを比較する。だって資本主義社会だからね。ゆとり教育も終わりましたし。
では、「浮かばれない子」は、何を目指して努力しているのか? 自分より努力していない人間が報われていくのを見ながら、彼は、何を考えているのか? 彼の努力は、どこへいくのか?

そういう子たちの支えとなっているんだろう、ジャニーズのDNAがある。それは、「頑張るのは当たり前」という価値観だ。古くはKinKi Kidsが「『頑張ります!』って言ったらジャニーさんに『頑張るのは当たり前だから』って怒られた」と言うし、亀梨和也堂本光一ら私が尊敬してきたアイドルたちは口を揃えて言う。「頑張るのはステージに立つ上で当然のことだから」と。頑張って頑張ってもうこれ以上ないくらい頑張って、初めてスタート地点に立てる。そうしていない人間がいるとか、いないとか、関係ない。自分は自分を納得させるために努力する必要がある。中居正広はこう言った。「成功は約束されていないけれど、成長が絶対に約束されている」。みんな口をそろえて言う。頑張って報われないとしても、頑張るしかない。回り道だったとしても、努力を続けていれば、その先で点が繋がる瞬間が絶対にある。そういう方法で、ジャニーズはスティーブ・ジョブズと同じように資本主義下での成功を、努力を条件に約束する。

 

私はこの価値観に支えられて、13歳から22歳までの9年間を生きてきた。ジャニーズを好きにならなければ、学年で下から3番目の成績の私のままだっただろうし、あの大学に入ることも、この会社に入ることもなかっただろう。私は資本主義的に言うと(偏差値とか年収とか)今のところ割と「成功」している部類で、それはなんでかと言うと、親が金を持っていたのと、めちゃくちゃ頑張ったからだ。ジャニーズが頑張るしかないと言うから頑張った。私は「成功者」になりたかった。

 

でも、私は、我に返った。
2つのことに気づいた。

 

ひとつ。私はこれから先も努力しなければならないが、その努力は生産活動であり、私のものではなく会社のものとなるということ。
ひとつ。ジャニーズと出会わなかったら、私は、一人で生きていくことができなかったということ。

 

ひとつめ。努力がどこへいくのか、という問題。
「努力」問題について、成功した亀梨和也堂本光一が「努力するのは当たり前」と語っているし、その努力は並外れたものだったのかもしれない。でも、考えてほしい。「浮かばれない子」のことを。彼はきっと亀梨和也堂本光一、あるいは他の先輩、とにかく成功した先輩たちの言葉を真に受けて、頑張っただろう。バックとして先輩の後ろで踊りを揃えるために部活動をやめたかもしれないし、舞台に出るために大学受験をしないという選択をしたかもしれない。その努力が、いつか必ず線になって繋がるというのが、ジョブズの、ジャニーズの、資本主義の言い分だ。でも私はそうは思わない。全然そう思わない。彼の努力が結果として彼に意味があったことだと彼が十年後言ったとしても、私はそう思わない。ひとは自分の人生を抱いて生きていくしかないから彼はそう言うだけで、そこ(ジャニーズ事務所的に言うと『デビュー』や『てっぺんをとる』)で努力が報われなかった人は、結局、彼の人生を切り売りしただけなのだ。彼の努力によって事務所は金を儲けてその一部を彼に支払い、一時的に彼の懐が潤う。それだけのことで、それ以外の何物でもなくって、「浮かばれない子」は決してその人生を報われることはない。彼に還元されない努力は、コンサートチケット料金として、先輩の番組出演料として、事務所に入り、経済はそうやって回っている。何が言いたいのかというと、ジャニーズの子たちがしている努力、そして私たちが日常の上でやっている努力というのは、経済活動であって、美しいものでも尊いものでもない。「浮かばれない子」も「謎に超出世してる子」も、その点においては変わらない。「努力」という点において、それ自体が生産活動である以上、彼らは経済主体でしかなく、従っていくらでも替えのきく駒である。
「浮かばれない子」と「謎に超出世してる子」との違いは、差異(make all the differences)として表われ出る。「謎に超出世してる子」はいつからかその「努力」(あるいは生産活動)が身を結び、経済活動から脱出できる(死ぬほど金をもらって、金のためにではなくやりがいのために仕事ができるようになる)。しかし、その経済活動からの脱出には、「出世」が必須条件であり、その「出世」は努力によって規定されるわけではない。「浮かばれない子」の努力はいつまで経っても経済活動であり、したがって会社のものであり、彼自身のものには永遠にならない。

 

ふたつめ。ジャニーズと出会わなかったら、私はひとりで生きることができなかった。
ちょっと前に(もう半年前くらいかな)、懐かしいこの事件についての意見陳述全文がバズっていたことを、覚えている人はいるだろうか。
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20140718-00037501/
努力教信者のうちの成功者とそうではない者がいるのはこれまで述べてきた通りだが、そもそもその努力教という宗教から疎外されている者がいる、ということに気づいて、私は割と、愕然とした。アマルティア・センという経済学者がいる。その人が『不平等の再検討』という本の中で「他人より劣った知性を持って生まれてくることは、罰せられるべき過失ではない」と述べていて、私はそれがいたく気に入ったのだけれど、実際のところ、この世界では他人より「劣った」出自の人間は罰せられるようになっている。私がそれに衝撃を受けたのは、ジャニーズと出会わなければ、私も「そちら」側の人間だったかもしれないからだ。
ジャニーズと出会って、亀梨和也になりたいと強く願って、努力を重ねて、私は罰せられることなく生きている。でも、私は努力していなければ罰せられるべきだったんだろうか? 努力しないで、よくわかんない大学に行って、金がなくて、その場合の私が彼のように犯罪を犯さなかったと、罰せられていなかったと、私は言い切れない。ジャニーズに出会わなかった私は「そちら側」だったかもしれない。
あるいは、友人たちを見ていて、女の子は「バリキャリになるか、結婚するか」の2択を迫られているように思う(これは友人に指摘してもらったことだ)。私はこの後者の選択をできるだけしたくなくて、バリキャリになりたいと願って、努力を重ねてきた。でも、その努力をしなかった人が、「結婚をせずに生きていきたい」と願うことは、贅沢なことなんだろうか? そんなはずはない、人間は自分の生活くらい決めていいはずだ。では、なんで女の子にある二択は「バリキャリになるか、結婚するか」だけなんだろう? どちらにせよ、経済主体として生きていかなければならない*1、それ以外を許されていないのはなんでなんだろう*2


こういうことを考えていると、「私たちは経済主体でなければ、自由な人間として生きていくことが許されていないんだろうか?」とか「経済活動は格差を広げるだけでクソ!」みたいなことが言いたくなってくる、うん十年前なら私はそうやって安田講堂でアジってたかもしれないけど、実際、共産主義は挫折したわけで、資本主義の中で生きていかなきゃならない、ということ自体は、私も受け入れている。

 

そもそもこの文章を書き始めたのは、友人がジャニオタを辞めたからだ。

私にとっては初めての「ジャニオタ」としての友人だった。インターネットで出会い、オフ会を何度かして、2人でも会って、LINEを交換して、今では本名で呼び合う友人。彼女が、ジャニオタを辞めた。彼女のオタ卒作文を読んでいて、私はジャニオタを続けていていいんだろうか、とぼんやりと思った。彼女は私と少し似ていて、前回のエントリーに書いたような屈託を抱えていて、それが限界を迎えて、ジャニオタを降りた。では、私は何を根拠にここに留まっていていいのだろう。

そう考えたら、ジャニーズがいなきゃ、私は資本主義を生き抜けないからだ、と思い出したのだ。大っ嫌いなConnecting the dotsを受け入れなきゃ私は実家に帰って大っ嫌いな父親と顔を合わせていつか結婚して子どもを産まなきゃならなくて、それがどうしても嫌で、何よりも嫌で、家で女でいるよりは、どうにか資本主義の歯車でいたくて、おんなじように資本主義の歯車として足掻いているジャニーズのアイドルたちに自分を重ねた。彼らが私たちに贈る「頑張れ」が、あるいは彼ら自身に向ける「頑張れ」が、資本主義社会の中での経済主体として「働け」という意味でしかないと、私はもうわかっていて、わかった上で、それでも私には彼らの「頑張れ」が必要だった。
何度だっていうけど、私はジャニーズ事務所のやり方にはめちゃくちゃ気に食わないところがあって、そういうオタクは事務所にもオタクにも疎まれることもわかっていて、それでも、ジャニーズアイドルが私の人生には、今のところ、必要。だから辞められないでいる。事務所がクソであればあるほど、エンタメ業界がクソであればあるほど、私が弊社に抱える屈託をアイドルに重ねて、なんとか生き抜けるような気がしてくる。最悪な消費の仕方かもしれないけど、私はアイドルを私の人生の同志だと思ってる。私がConnecting the dotsを居心地悪く聞いているとき、アイドルが同じように「世界がひとつになるまで」を居心地悪く歌ってるかもしれないことに安心している。私が「そんな綺麗事言ったって努力はただの経済活動じゃん」と拗ねているときに、あの中にも「そんな綺麗事言ったってエンターテイメントはイスラム国もポピュリズムも防げなかったじゃん」と考えて、それでも笑顔でいる子がいるんじゃないかと夢想する。そうやって、なんとか生きている。

 

オタ卒した友人に言い訳するみたいにこの文章を書いたけど、言い訳にすらならなかった。感想文を書くって言ったのに、感想文になってなくてごめんなさい。
結局、ジャニーズ事務所のやり口に賛同できないのに金を落とすことを正当化する論理なんてないんだろうなと思う。先週買った新しい推しのポスターを見上げて、彼女がポスターを破いた彼女の推しのことを思った。私はまだ、このポスターを破けそうにない。

 


2020.6.27.スズキアイコ

*1:バリキャリなら経済活動をしなきゃいけないし、結婚したら家父長制のもとに多くの場合生殖活動を求められる

*2:クソリプ予防として先に言っておくけど、男の子にもこういう制限はあるのかもしれないが、私は私の身をもって経験していないし、あんまり興味がなかったので知らない、だからここには男の子の話はしてない。それだけなのでクソリプ送ってこないでください

現状の個人的感想

 

 何ヶ月か前に書いたこのブログ

 

 

jys123.hatenablog.com

 

結構読んでもらえたみたいでびっくりした。世の中には、アイドルを好きでいることに苦しんでいる人が私の思う以上にいるんだなあと思った。

 その記事の中で、私は、「彼らが今している仕事がどのような政治的含意があるのか、現状において彼はどのような政治的媒体として機能しているのか。それを自分なりの尺度で肯定したり拒否したりすることが、必要なのだと思う。」と書いた。

※思ったより拡散されて、あんまりジャニーズを好きであるってことには興味のない人も読んでるみたいなので、上の記事を要約すると、

・アイドルのことを好きでいるだけで傷つけてるような気がする
・それはなぜかというと、「アイドルが好き」って欲望は「お人形でいてくれ」って欲望によく似ているからなんじゃないか(でも厳密には違うと私は思う)
・だから「お人形でいてくれ」という欲望を持たないために(推しを傷つけないために)、わたしは推しのこと全肯定したくない(なかでもアイドルが政治的媒体として使われることに対して)

 っていう話で、それを実践するために書いたのがこの記事です。
 伝わるかなあ。インターネット怖い。
 (2020.5.13追記)

 

 で、今、それをした方がいいんだろうなという気がしている。

 というのも、彼らの今の姿勢は、「政治的態度を表明しない」という政治的態度の最たるものだからだ。
 ジャニーズは今、「Smile Up Project」というプロジェクトに取り組んでいる。

 ジャニーズ事務所によると、「今後も幅広く、継続的にジャニーズグループとして社会貢献活動を行っていくにあたりプロジェクトを立ち上げました」とのことだ*1

 では、その活動内容とはどんなものなのだろうか。

 1. 新型コロナウイルス感染拡大予防の呼びかけ
 2. 自宅で楽しめるコンテンツの提供
 3. 本プロジェクトの収益による医療物資支援

 これ以外にも、ジュニアを含めて数多くのアイドルたちが「今はおうちにいよう」「医療従事者、スーパーで働く人、運輸に携わる人に感謝を示そう」と発信している。

 それ自体は、間違っていない。
 ジャニーズのアイドルたちは今、突きつけられていることだろう。自分たちの無力さ。緊急時に何もできないという苦しみ。
 だからこそ、彼らは声高に感染拡大予防のために声を上げる。わたしはそれを否定するつもりはない*2

 でも、感染拡大防止のためにできることは、それだけなんだろうか?
「一人一人の努力」で本当に解決できるのか?

 多くの人々が、そう考えていない。

 だから、Twitter上で「安倍やめろ」みたいなタグが広まったり、それに呼応して安倍首相を擁護するタグも広まったりしている。
 感染拡大を防止するために、政治が重要な役割を果たすということを、右派も左派もあるいは「中立派」の人たちでさえ、今は認識している。
 そして、それが少なくとも日本中の共通認識になったからこそ、今、今になってやっと、みんなが政治の話を始めた。
 みんなの中には著名人も含まれている。芸能人も含まれている。政権寄りのことを言っていれば政治的でないと受け取られなくなっているのを、少なくとも私は肌で感じている。「検察庁法改正に抗議します」というタグに呼応して、「検察庁法改正に興味ありません」というタグが勃興した。しかし、「興味がないこと」を声高に示す必要があると、政権寄りの人たちが考えるようになったというのは、少なくとも今、政治に今までよりは多くの関心が向けられているからだと思う。

 なのに、ジャニーズは今まで通り、「中立」でいようとする。
 ジャニーズの言う「絆」とか「感謝」とかは、政権が言っていることと一緒だ。ジャニーズは今、高度に政治的な発信をしている。人々の絆や感謝で事態を乗り切ろうと発信することは、公が補償せずとも頑張って生きてくれということだ。補償しないせいで死ぬ人がいることから目を逸らして、綺麗な顔をしている。現状に責任を持つべきなのは、個人ではなく、公である。それなのにジャニーズ事務所は、あくまで個人にしか働きかけない。いまのジャニーズ事務所の所属タレントはほとんど、政党の批判をしない。"政治"の話をしない。「個人の努力」「みんなで協力」という"私"の話しかしない。

 それは間違いなく政治的行為である。
 そして、私という個人はその政治的行為を、肯定しない。

 正直今になってこういうことを言っても仕方ないのかもしれないなと思う。今になって政治の話をしてもしょうがないのかもしれないなと思う。だって、コロナが終わったら、みんな全部忘れて自民党に投票するんだろう。あるいは投票に行かないんだろう。憲法は改正されるだろうし、直近では検察庁法改正案は廃案にならないんだろう。3.11で世界が結局何も変わらなかったみたいに、自己責任論とポピュリズムの地獄みたいな世界は変わらないんだろう。もっと悪くなるかもしれない。
 みんなは覚えていないかもしれないけど、コロナより前から、3.11より前から、この国の政治は壊れてた。3.11やコロナで影響する人数が爆発的に増えるまで、自分の鼻先まで危機が迫ってこないと気づかないなら、その危機が去ったらあっさり忘れるんだろう。

 でも、私はジャニーズアイドルを好きでいるために「彼らが今している仕事がどのような政治的含意があるのか、現状において彼はどのような政治的媒体として機能しているのか。それを自分なりの尺度で肯定したり拒否したりする」と決めた。
 こうやってブログを書くことには何の意味もないかもしれない。でも、私自身のために書いておく。私が彼らを好きでありつつも全肯定しないために書いておく。そうやって、彼らを人形としてでなく職業としてアイドルをやっている個人として好きでいるために、書いておく。怖いので消すかもしれない。でもとりあえず自分のために書いた*3

 

2020.5.12.
スズキアイコ

*1:https://www.johnny-associates.co.jp/smile_up_project/

*2:いま働かなければならない人たちをヒーロー扱いするのはどうかと思うけど、本筋には関係ないのでここでは置いておく

*3:なお、私はSmile Up Projectやその他の人々を笑顔にさせようというコンセプト自体を批判するつもりはない。私自身が彼らに励まされたし、エンターテイメントは、私が好きなジャニーズだった。この記事の含意は、ジャニーズ事務所が政治的発信を控えているということに対しての批判である

King & Prince「Moon Lover」が好きです

突然ですが、わたしはKing& Prince の「Moon Lover」が好きです。


と、この一文でこの文章で書きたいことは書き尽くしちゃってるんだけど、とりあえず熱が収まらないのでなんで、どんな風にこの曲が好きなのか書かせてほしい。

わたしがアイドルの曲で好きな曲はだいたい3つくらいに分類できて、

  1. かっこいい曲
  2. 思い出曲
  3. アイドル曲

になる。1)はわかりやすくて、キンプリでいったら「Naughty Girl」とかが大好きだし、KAT-TUNの「NEVER AGAIN」や「DON’T U EVER STOP」は王道だとわかりつつも一生好きだ。
2)もこれまたわかりやすいと思う。たとえば、わたしは関ジャニ∞の「NOROSHI」「Heavenly Psycho」がめちゃくちゃに好きなんだけど、理由は自分が関ジャニ∞の中で錦戸亮さんを推すきっかけになった曲だからだ。
そして、3)アイドル曲。好きでたまらないと今回叫んでいる「Moon Lover」はここに分類される。他に例を出すなら、KAT-TUNの「Peaceful Days」、NEWSの「Change the World」あたりもここに入る。

今回便宜上用いたアイドル曲、という分類名はちょっとわかりにくいかもしれない。
「アイドルの全てがここにあるんだと言いたくなる曲」、というのを縮めて便宜上アイドル曲と呼んでみた。アイドルの全てがここにある。ほんとだよ。

Moon Loverについてちょっと説明しておくと、この曲はKing & Princeの1stアルバムの8曲目に収録されている*1
キンプリは「王道」をいくアイドルだと思われていて、実際ビジュとパフォに全振りのアイドルだとわたしは感じている。今時珍しいくらいステージに集中してるアイドルだと思う。そしてその彼らがこの曲を歌うことに意味があるとわたしは思う。

前置きが長くなったが、ここで再生していただきつつ(動画も転がってるので探してほしい)、曲の内容に入っていこう。

Moon Loverを好きになるまで、わたしはアルバムの一曲として流し聞いて「くっさい恋愛ソングだな」と思っていた。ちゃんと歌詞を聞いてなかったのもあるし、「もし君が全て忘れても…/僕はここにいるよ/そばにいるよ」という部分で「世界中を敵に回しても君を守るよ」的J-POPを感じてしまったのだ。

でも、ここでの「君」は交際相手じゃない。ここでの「君」はファンであり、「僕」はアイドルなのだ。
しかも、この曲ではアイドルをわたしたちが「忘れる」ことが描かれている。前記事

 

jys123.hatenablog.com

 

で触れたが、わたしたちはずっと好きだよなんて言っていつかアイドルを忘れる。この曲でアイドルはそのことを知っている。

曲の冒頭では、アイドルとファンの蜜月が描かれている。ファンがアイドルのことを好きでたまらないときにアイドルが見せてくれる夢。それをとっても美しい言葉で表現している。(e.g.僕と淡い甘い恋をしよう/夜が明けるまでそばにいるからさ/流れ星集めてグラスへと/どんな味の夢を見よう)。

それに続くサビでも、アイドルの見せてくれる甘美な夢についての表現が続く。

1.2.3で夜風に飛び乗れ
行きたい場所へ行くのさ
縛られた決まりごとだけじゃ
見えない世界を渡ろう

それなのに、サビの最後でわたしたちは唐突に現実を思い出させられる。

目が覚めたって 忘れないように
僕は今日も夜空を描くよ

急に「目が覚めたって」と、この時間の終わりが暗示されるのだ。アイドルとファンの蜜月の最中に、わたしたちがいつかアイドルを忘れることが示唆される。わたしたちがいつか「目が覚める」ことをアイドル自身に突きつけられる。明るい笑顔のまま。

ここで間奏に入るのだが、ステッキが登場し、ジャニーズ舞台みが高まっていく。

2番もAメロBメロとアイドルとファンの蜜月が続くがその中にも「今は長く甘く見つめ合おう」などと、アイドルとファンの関係性が「今」だけのことである刹那性がうっすら透けて見える。

そして2番のサビ。

1.2.3で僕の名を呼んで
君の声で聞かせてよ

とアイドルのことを歌っているということが明確になってくる。
そしてその上で

何度でも返事するからさ
それだけで幸せだよ

とわたしたちの声援を肯定してくれるのだ*2
何より痺れるのは、1番では「目が覚めたって/忘れないように/僕は今日も夜空を描くよ」だった部分が「目が覚めたって/耳に残るように/僕は今日も歌い続けるよ」へと移り変わっていること。

つまり、この曲の冒頭、

三日月の夜 窓を開けたら
片目を閉じて薬指で
満月になるように 優しく書き足せたら
どこへでも駆けつける 君の元へ

も、夜空を描く=歌をうたうの暗喩だとすれば、最初っからアイドルがファンに向かって歌ってくれていることがわかる。

そして大サビでは「もし君が全て忘れても」と直接的に、ファンがアイドルを忘れることに触れる。そして、これまでの甘美な歌詞を全て踏まえた上で、「僕はここにいるよ/そばにいるよ」と言うのだ。わたしたちはいつかアイドルを忘れる。わたしたちがアイドルを忘れたとしても、アイドルというものはわたしたちの中にある。アイドルはわたしたちが全てを忘れてもなお、そばにいてくれる。

たぶん、アイドルを好きになって、好きじゃなくなったことのあるジャニオタなら経験したことがあると思うけれど、すごい熱量で好きだったアイドルのことをすっと好きじゃなくなる瞬間というものがある。それは「好きが枯渇する瞬間」とでも言うべきもので、それが訪れたとき、「あれ、わたし、なにしてたんだっけ」と夢から覚めたような心地になって大量のグッズや写真、楽しかったはずのライブチケットの半券を見つめる羽目になる。そのときにわたしたちの心の中にあるのは虚しさでしかなくて、時間を無駄にしたような気持ちになる。わたしがアイドルにうん十万とひと夏を使った去年、わたしの大学の同期はベトナムインターンをやっていた。わたしがアイドルに捧げた青春で出会った彼氏と、わたしと同い年の知人は結婚した。わたしは何をしてたんだろう。ふと我に返ると恐ろしいほどの虚しさに襲われる。

でも、この曲は、そのときのわたしまでもすくいあげてくれるのだ。

目が覚めたって過ごした時間は
君を守るから 強くなれるから

わたしはいつかこの夢から覚める。
そのときにわたしの手元には大量のグッズと写真が残り、あったはずの諭吉も時間も若さもないかもしれない。
でも、それでもこの時間はわたしにとって大切なものだったのだ、と、この曲に巡り会えたわたしは、そのときにきっと言える。
目が覚めたって、アイドルに出会えて、救われて、必死に叫んで、泣いて、笑って、過ごした時間は、わたしを守ってくれる。絶対。だってこんなに大切な時間なのだ。こんなにいろんなことに悩んで、心を動かされて、いっぱい考えてるのだ。わたしにとって、アイドルを推しているこの時間は決して無駄なんかじゃない。

 

そして、最後に再び、アイドルを忘れるわたしたちへの救いがある。

僕はずっと君と…
巡り会うよ

何回だって言う。わたしたちはアイドルをいつか忘れる。今「一生好きです」って言ってる人だって、「永遠に◯◯担だよ」って言ってる人だって、いつかは忘れる。でも、忘れたって何をしたって、アイドルはわたしたちに巡り会ってくれる。

アイドルをやってる彼らだってわたしたちのことを忘れないわけじゃない。いつかは忘れるかもしれない。でも、アイドルは、アイドルというものは、わたしが愛している概念は、ずっとわたしと巡り会ってくれるのだ。そういう救いがある。彼らがいつかアイドルを辞めたって、あるいはわたしの好きなアイドルじゃなくなったって、アイドルという概念はわたしと巡り会う。

 

そしてその概念としてのアイドルを愛することは、たぶん、人間としてのアイドルを愛する鍵なのだ。

 

自担はずっとアイドルでいてくれないかもしれない。なぜならアイドルは人間だからだ。人間は変わるからだ。一生アイドルですって言った人だってアイドルじゃなくなるかもしれない。そういう例ならわたしたちはいくつだって持ってるだろう。それは彼らが嘘つきだったからじゃなくて、人間とはそういうものだからだ。

でも概念としてのアイドルはわたしたちと巡り会ってくれる。それはたぶんもう自担じゃないけど、自担を愛した記憶はわたしとともにある。自担との思い出がわたしを守ってくれる。そして、新しくアイドルはやってくる。わたしは自担を人間として愛すると同時に、概念としてのアイドルを愛する。だから安心して変わりゆく自担を愛せる。

アイドルというものは何度だってわたしと巡り会うのだ。それはちょうど、錦戸さんがアイドルではなくなってもわたしがKing & Princeというアイドルと出会えたように。そしてそれと同時に人間としての錦戸亮を今も愛しているように。

 

わたしは変わるし自担も変わる。それでも、「目が覚めたって/過ごした時間は/君を守るから/強くなれるから」大丈夫。

 

ってなわけで、そういうことを教えてくれる、思い出させてくれるMoon Loverがわたしは大好きです。2019年9月6日放送の少クラ、なぜか録画がなくて総集編のショートバージョンしか持ってないので、後生ですから再放送してください。NHKさん頼む。


2020.3.25./スズキアイコ

*1:わたしはザ少年倶楽部(2019年9月6日放送)の一部を見た。2019年のツアーでもやってるっぽいので、興味がある人はそっちで確認してほしい。

*2:余談だけど、アイドルにアイドルであることを肯定されるとちょっと安心してしまうのは、たぶんあんまりよくないことだ

ジャニーズアイドルを好きであるという営みの今後について

以前、ジャニオタエゴイズム、という文章を書いたことがある。

 

jys123.hatenablog.com

 

ここではアイドルを好きでいること、それ自体がアイドルを傷つけるのではないか、という話をしたのだが、その問いかけは今もわたしの中にある。

そしてそれは、2019年、強くなった。

わたしは初めて「元ジャニーズ」あるいは「ジャニーズ以外の人間」を推した。ジャニオタエゴイズムを書いたころのわたしに、今年はライブハウスで推しを見ることになるなんて言っても、そして推しはもうジャニーズじゃないなんて言っても、たぶん、理解できないだろう。
最初から「元ジャニーズ」を推していたわけじゃない。わたしは「ジャニーズ」を推していて、結果的に「元ジャニーズ」を推すことになった。それは、わたしは初めてジャニーズというものを相対化して見たということだ。そして、その行為によってちょっと気付いたことがあったり、なかったりしたので、それを記しておきたい。

 

アイドルを好きでいること、それ自体がアイドルを傷つけるのではないか


最初にジャニオタエゴイズムのもととなった日記を書いたとき、それはもう4年も前だけれど、あの頃はもうちょっとシンプルに「アイドルを好きでいることがアイドルを傷つける」という問題を考えていた。


皆さんは、赤西仁というアイドルを覚えているだろうか。いや、赤西仁がアイドルだったということを、覚えているだろうか。


昔、KAT-TUNというグループには、赤西仁というアイドルがいた。それはもう9年も前に終わってしまったのだけれど、そのグループの中にいて、赤西仁は確かにアイドルだった。圧倒的な歌声にセクシーなダンス、キュートな人柄、どこをどうとってもアイドルだった。アイドルとしての才能に恵まれた人だった。誰もが赤西仁を愛さずにはいられなかった。でも、彼の中で、もっともアイドルとしての才能として突出していたのは、顔だったと思う。
赤西仁は今見てもかっこいいけれど、当時もめちゃくちゃかっこよかった。とにかく顔がいい。でも、あるときから赤西仁はその美しい顔を、サングラスで隠すようになった。これは僕のブラジャーなんです、と言った。髪をパイナップルヘアにして、サングラスをしていた頃の赤西仁を、わたしはよく覚えている。その頃、ああアイドルを好きになるということはこうやって人を傷つけうるのかもしれないと思った。赤西仁は、何よりもそのパフォーマンスで評価されたい人だった。でも、わたし(たち)は、赤西仁の顔を見てかっこいいと言い、そんなわたし(たち)の存在が彼の「やりたいこと」を妨げているのかもしれないと思った。
あの頃わたしが考えていた「アイドルを好きでいることそれ自体がアイドルを傷つける」要因は、顔を好きになることだった。

 

あれから4年経ったわけで、その間にわたしにもジャニーズにもいろんなことがあった。わたしは地雷だと思っていた関ジャニ∞を好きになり、錦戸亮さんを担当に据えてコンサートにたくさん入った。ジャニーズにもいろんなことがあった。SMAPが解散し、滝沢秀明が表舞台を去り、嵐が無期限活動休止を発表し、関ジャニ∞からは渋谷すばる錦戸亮が脱退し、ジャニー喜多川は亡くなった。そして、中居正広ジャニーズ事務所を去るという。よかったこともある。KAT-TUNは充電期間を終えて帰ってきたし、King&Princeに次いでSixTonesSnow Manとがデビューした。かつてジャニーズを二分した派閥はもうない。ジュニアも力をつけている。


それでも、やっぱりわたしは錦戸亮さんを推しているので、この9月の出来事が一番、苦しかったし、いっぱい考えた。いろんなことを考えた。アイドルってなんだろう、なんで錦戸亮はアイドルでいることをやめたんだろう、なんで錦戸亮はアイドルでいてくれたんだろう。わたしが好きだったのはアイドルなんだろうか、それともわたしは錦戸亮が好きだったんだろうか。


9月、わたしは錦戸亮さんにファンレターを送った。出来るだけ手短に、決して彼の負担にならないように、彼の選択を否定しないように、そう心がけて手紙を書いているうちに気付いたことがある。


簡潔に言うと、「わたしは錦戸亮さんが好きです」と言うとき、それを言うだけで、彼のかつての現状を、アイドルであることを肯定することになるのではないか、と考えた。
アイドルであることを肯定していいのかわからない、という話題については次節でお話しすることとして、まずはこの問いについて考えたい。


わたしが錦戸亮さんを好きですと言うとき、少なくとも2019年9月5日の15時までは、錦戸亮という人間には「関ジャニ∞で」「ジャニーズ事務所に所属している」錦戸亮を好きである、という意味が付随した。つまり、錦戸亮という人間を好きである、というだけでは、「関ジャニ∞で」「ジャニーズ事務所に所属している」という要素のどちらかが好きである、という可能性を拭えない。むしろ、「関ジャニ∞で」「ジャニーズ事務所に所属している」ことを肯定することと錦戸亮を好きであることは切り離せないものだった。
それは、「関ジャニ∞ではなく」「ジャニーズ事務所には所属していない」錦戸亮の可能性を無視して行われる。わたしがあの日まで錦戸亮を好きであると言うことは、錦戸亮関ジャニ∞に属していない可能性、錦戸亮がアイドルではない可能性、を捨象することだった。それはファンレターを書くときに痛感したことで、この夏のあなたが好きでした、ということで、今の彼の選択を否定しかねないのではないか、と何度も書き直した。


時にアイドルは「ファンの皆さんのおかげで」と言う。「僕たちの仕事はファンの皆さんを喜ばせることなので」と。それがわたしには怖くてたまらない。彼が本当にやりたいこと、したい仕事、あるいは働きたくないという心の叫びを、わたしたちファンの「好きです」が封じているとしたら? ファンが「好きです」と言う限り、アイドルでいてくれるとしても、ファンがその「好きです」に責任を持つのなんてその瞬間だけで、彼の人生には決して責任を持たない。全盛期の近藤真彦にずっとファンですと言ったことのある人はたくさんいると思うけれど、それならなんで今の近藤真彦はアリーナやホール、武道館でライブをしていないのか? それは、ファンが離れたからだ。「ずっとファンです」と言ったファンでさえ。
あるいは、ファンが好きです、ということで続けられているアイドルがいたとして、でもそのアイドルが過労による病気を抱えていたとしたら? もう止まらなければならないのに、ファンの「好きです」の力で走り続けられたら、わたし(たち)は責任を持てるのだろうか?


もちろん、アイドルは一人の人間であり、それぞれの責任において選択をし得る。だからこそ、錦戸亮はもうジャニーズでも関ジャニ∞でもないし、最近ではジャニーズアイドルも病気を理由に休むことができるようになってきた*1
でも、その選択をするとき抵抗力となるのがファンの力だとわたしは思う。それこそがファンの「好きです」の力であり、それがアイドルを傷つけないか、わたしにはそれが怖くてたまらないのだ。

 

アイドルを愛するということはお人形を愛するということなのか?


ジャニーズでい続けるには「キレイなお人形」でいることが求められる。大人の言うことを聞くこと。大人が言わないことまでも想像して汲んで体現すること。連帯責任だと言われれば活動を自粛する他ないし、仕事だったら自分の政治的・文化的信条と合わなくても笑顔でコメントやパフォーマンスをする必要がある。CMなんて顕著な例で、この商品、あるいは団体のイメージキャラクターになってくれ、という仕事は、そのまんま、「美しい(イメージのいい)人形(キャラクター)になってくれ」という仕事でしかないだろう。


このキレイなお人形としてのアイドルついては以下のブログを参照してほしい。

 

lvknty133.hatenablog.com

 


では、ジャニーズアイドルを愛するというのは、キレイなお人形を愛するということなんだろうか


この問いを自分に投げかけたとき、じゃあ、錦戸亮はキレイなお人形だっただろうか、と考えた。錦戸亮は2019年9月まで、キレイなお人形だっただろうか。錦戸亮は意思なき人形だっただろうか。


答えは否だった。

彼はキレイなお人形なんかじゃなかった。大倉さんのストーカーに憤り、週刊誌にツッコみ、バラエティの流れを崩してでも自分の言いたいことを言った。インタビュアーの望むストーリーには決して乗ってやらず、はぐらかしたような言葉で自分の語らないべきことを決して語らなかった。いつもそうだった。それはこの2年だけじゃないと思う。思い出すのは2012年、錦戸さんが脱退したNEWSについて語ったとき、彼は「自分は何も言うべきでないけれど頑張ってほしい」という旨のことを言った。錦戸さんがNEWSについて語ることは、たぶん、大人には求められていたことだった。錦戸さんが大人のストーリーに乗れば、円滑にいろんなことが回る。なのに、錦戸さんはそうしなかった。他にもたくさんある。挙げきれないくらいにある。わたしが知らないこともあるだろう。

錦戸さんはずっとキレイなお人形なんかじゃなかった。そして、今もキレイなお人形なんかじゃない。

 

ジャニーズ事務所にいて、キレイなお人形になれなくて、宙ぶらりんな感情を抱いている人は、アイドルは、たぶん、一定数いると思う。そしてたぶんそれは結構しんどいことで、メンバーとも分かり合えない日もあって、ファンすら敵に見えることだってあって、ひとりぼっちの孤独さだけとともにあるんだと思う。


わたしは、そういうアイドルに惹かれてしまう。キレイなお人形にならないという意思を持った人、もしくはどうやってもキレイなお人形になれない人に、惹かれる。むしろ着ぐるみを与えられて、居心地悪そうに立ち尽くしているような人が好きだ。わたしがジャニーズアイドルを好きになる理由はもしかしたらそこなのかもしれない。ジャニーズはアイドルにお人形であることを求め、着ぐるみを与える。でもその着ぐるみに対して彼らは時に違和感を表明する。その歪みが、もしかしたら好きなのかもしれない。

したがって、ジャニーズアイドルを好きになるということはそのまま「お人形を愛すること」とは言えないと思う。もちろんお人形としてのアイドルを好きな人はいるし、もしかしたらそちらの方が多数派なのかもしれない。でもジャニーズアイドルを愛するという営み自体には、人形としての在り方を否定するという道もありうるのだ。現にわたしはお人形になれないアイドルが好きだったのだから。だから、アイドルという在り方自体は肯定したい。もちろん、「お人形であること」を求められることが嫌になった人が着ぐるみを脱ぐことができるという条件付きで。

 

ジャニーズアイドルを好きであるという営みは変化したか


前述したように、この何年かはジャニーズにとっても激動の日々であり、したがってジャニオタにとっても激動の日々が続いた。
では、ジャニーズアイドルを好きでいるという営みは、変わったのだろうか。「アイドルを好きでいることそれ自体がアイドルを傷つけうる」という図式は、変わっただろうか。アイドルという存在は、キレイな人形であることを求められなくなっただろうか。
残念ながら、わたしはこの問いについては楽観的な回答はできない。ジャニーズアイドルは以前にも増して象徴であることを求められるようになってきたし、以前にも増して空気を読むことが求められるようになってきた。オリンピックが開催されるのかは知らないけど、開催されるなら、たぶん、この傾向はもっと強くなっていくのだろうなと思う。
ジャニー喜多川という絶対的な存在を失ったからこそ、彼がさらに神格化される。それはかなり危険なことだと思うし、もともとナショナリズムとの相性がよかったジャニーズのエンターテイメントは、さらに政治的な含意を(意図しないという建前をもって)発信するようになるだろう。その媒体はいつだってジャニーズアイドルなのであり、キレイな人形であることを求められる人間たちだ。
キレイな人形を求めるという点でジャニーズは変わっていないどころか、その傾向は強くなっている。それに対応して、ジャニーズアイドルを好きでいるという営みも変わらなければならないが、恥ずかしいことにわたしはそれに気づいたのはつい最近だった。

 

それでも願うこと


性懲りもなく、好きなジャニーズアイドルが増える。
これから先わたしはたぶん、ジャニーズアイドルを好きでいるとき、今まで通りの態度では向かえないだろうというぼんやりとした気づきだけがあって、それを言語化しようとしてこの文章を書いた。


では、わたしはこれから、どうやってジャニーズアイドルを好きでいればいいのだろう。

ジャニーズアイドルを好きでいるとき、彼らがキレイな人形であることを拒否したうえで好きでいようとするとき、そうやってできるだけアイドルを好きでいることそれ自体によってアイドルを傷つけることのないようにと願うとき。

 

たぶん、そのときわたしは、彼らの仕事に批判的に向き合う必要があるのだろうと思う。彼らが今している仕事がどのような政治的含意があるのか、現状において彼はどのような政治的媒体として機能しているのか。それを自分なりの尺度で肯定したり拒否したりすることが、必要なのだと思う。彼のことを存在を丸々肯定するのではなくて、彼の仕事ひとつひとつ、あるいは彼のパフォーマンスへの向き合い方や彼の見た目、彼のエピソード、それらを好きでありつつも、彼において許容できない言動は許容しないということ。

 

わたしは、好きなグループは永遠に続いて欲しいと思っていた。もしかしたら今も思っているかもしれない。永遠に、今の楽しい時間がアイドルの世界だけでも続いて欲しい、と。

でも、いつかは終わる。

錦戸さんは元気がでるSONGの中で、

不確かな日々に潜んだ確かないまを明日も明後日もずっと繋いでいこう いつか永遠と呼べる日まで

と歌ったけれど、やっぱり永遠はなかった。錦戸さんはもう関ジャニ∞のいまを繋いではいない。あるいは、わたしが初めにジャニオタエゴイズムの原型の日記を書いたとき、次の日記は「終わらない物語・嵐」だった。あの頃わたしは、嵐だけは永遠に続くものだと思ってた。でも、嵐すら一旦はその物語にピリオドを打つと言う。


わたしが思うのは、アイドルだって人間でしかなくて、雲の上の人間でもあっても人間であって、だからいつかは死ぬし、今は生きているし、生きていれば人は変わる、関係だって変わる。それを拒否することは、アイドルの人としての権利を尊厳を踏みにじることだ。
好きであるということそれ自体によってアイドルを傷つけること、それはたぶん、アイドルを人として扱わないことなのだと、今、わたしは思う。自分の願う通りになってくれと暴力的に「応援」すること、キレイなお人形であることを求めること。だから、わたし(たち)はアイドルを人として愛さなければ(あるいは愛するのをやめなければ)ならない。それが、たぶん、今ジャニーズアイドルを愛するうえで一番必要な態度だと、わたしは思う。

 

それでも、願うこと。

 

わたしはKAT-TUNのPeaceful Daysという曲が好きだ。わたしがアイドルについて願うことはたぶんこれで全てだ。一曲を通してジャニーズアイドルであること、ジャニーズアイドルでなくなることの全てが詰まっていて本当は全部引用したいんだけれど、一番好きなフレーズだけを引いてこの記事を終わりにしようと思う。

 

せめて永遠ではない時を一瞬でもムダにはしないと ココデ 約束しよう

 

 

 

2020.2.26./スズキアイコ

*1:恐ろしいことだけど、昔、堂本剛さんが同じ病気だったときには、彼は休むことができなかった、もしくはしなかった