jonny's 関ジャニ KAT-TUN

来る日も来る日も

好きなことを好きと言ってみたくなった。

生まれて初めて錦戸亮さんに会ってきました

白洋舎にワンピースをとりにいった。1700円だった。お気に入りのワンピースはドライクリーニングしかできないもので、汚れてはいないけれど絶対に7/14をいちばんそれが綺麗な状態で迎えたかった。それを丁寧に畳んでスーツケースにいれた。


生まれて初めて、錦戸亮さんに会ってきた。


わたしが関ジャニ∞を推し始めたのは、たしか去年の9月ごろ。絶対零度の横山さんが綺麗だったとか、ananの大倉さんがかっこよかったとか、いつも通り「いつの間にか」ハマっていた。ずっとだれが推しとは決まっていなかったけれど、GR8ESTの円盤を見て、わたしの知るのとは違う錦戸亮さん*1がいて、わたしは錦戸さんを中心に推し始めた。


当落が出てからとった飛行機は、自宅から始発で行っても間に合わない早朝発で、生まれて初めて空港泊をした。一睡もできなかった。久しぶりに乗る飛行機はLCCで、水ももっていないのに空の上で頭が割れるように痛んだ。薬はそこにあるのに水をくださいとも言えずに唾を飲み込んだ。

札幌。

12日の朝には到着していたけれど、結局観光はその12日だけしかしなかった。あしたがライブだと思えば、13日は何もできなかったし、14日はもっとそうだった。


怒気さえも孕んだように聞こえる歓声のなかで、錦戸亮さんが、関ジャニ∞がステージにいた。ブルーレイで何度も繰り返した見たあの美しい顔がスクリーンいっぱいに映し出されていた。錦戸さんは踊って歌って叫んでいた。

わたしはきっとこの公演を見て、「錦戸亮、生きてる……」という感想を抱くと思っていた。わたしの中での錦戸亮はそれくらい存在が遠いものだった。

そして確かに錦戸さんは生きてた。でも、違った。錦戸亮は、意志を持った人間としてそこに存在していた。アイドルとして歌い踊るすべての仕草に動作に、錦戸亮錦戸亮を選んで生きている意志を感じた。

わたしは歓声の一部になった。錦戸さんが歌っていて、錦戸さんが踊っていて、錦戸さんが笑っていて、わたしはそれが奇跡だと思った。


終わった瞬間、膝が震えた。立てないと思った。このままここに座り込んでしまいたいと思った。喉が痛かった。もう声なんて出ないと思った。


しあわせだと思った。


わたしが生活の中で抱えている不安とか、不満とか、生きづらさとか、そういうものがなくなったわけじゃないのに、それでもわたしはしあわせだった。身体が震えるくらいしあわせを噛み締めていた。わたしはわたしがしあわせになれることを久しぶりに思い出した。そうだった。わたしはしあわせという感情を記憶してる。たぶん、薄暗い感情を抱え始めた高校生のころ以来、こんなに長い間しあわせを噛み締めたのは初めてだったと思う。バイトの残業代はこの二年で1000円分くらいしか出てないし、来年から働く会社の懇親会はわたしのいないところで執り行われてるし、楽しくもない来週のゼミのコンパの幹事を免除されたわけではない。それら全てを許せない気持ちとはべつのところにわたしはいた。わたしはしあわせだった。


わたしの十五祭は札幌、名古屋初日三日目の三公演で、そのうちの二公演が終わったいまでも十五祭に関する記憶はほとんどない。断片的な涙が自分の身に降り注いだこと、錦戸さんが笑ったこと、関ジャニ∞が笑っていたこと。それくらいのものだった。

ただあの大きな歓声の中に自分がいて、そしてステージの上には息をするアイドルがいた。それを肉眼で確認できたし、おもちゃのようにぎこちなかった想像の中の関ジャニ∞の動作は、なめらかに動くようになった。


いままで、ライブというもののことをあまり信用してなかった。反復不可能な時間に何万もかけるのはコスパが悪いと思っていたし、ライブ中でも他人に見えている自分が気になってしまってうまく楽しめなかった。それがこのように変化したのは、単にわたしが年を重ねたからかもしれないし、バイトでお金を稼いだからかもしれないし、大学生活のなかで「笑われない」服装や身の振り方を否応なしに身につけたからかもしれない*2。あるいは、それらを忘れさせるだけの力が関ジャニ∞にあったのかもしれない。とにかく、わたしはそこにいるアイドルに圧倒されることができたし、それはあまりに甘美な体験だった。


アイドルのことを愛していいのか、わたしは彼らを好きでいていいのか、わからなくなることがある。それはわたしの生きづらさと関係していることもあるし、関係していないこともある。彼らを愛することは、彼らを傷つけることなんじゃないかという悩みは消えていないし、彼らの言動のなかにはどうやっても許容できないものもある。

それなのに、これだけ圧倒的なしあわせを感じてしまった。

若輩者のわたしにはよくわかっていなかった(し、いまもよくわからない)けれど、たぶん、たぶんに、ひとのいる世界でひとと関係を持って生きるというのは、きっとそういうことなんじゃないかと思った。許せないことも傷つけることもあるけれど、それでも圧倒的な感情のために、あるいは静かなしあわせのために、関係のなかを生きてしまう。わたしはアイドルとの関係のなかに生きることにしあわせを知った。この関係のなかを、アイドルを傷つけながら、アイドルに怒りながら、きっと、しばらくは生きるのだろうと思う。


とりあえず、今日の名古屋公演がわたしの十五祭のオーラスになる。圧倒的なしあわせを、全身に浴びてきます。



2019.7.21




*1:むかしNEWSを推していたときに見ていたのとは印象が違ったという意味

*2:わたしの大学生活の半分は「誰からも笑われない」人間になることに注がれた。バカバカしいといまは思うけどそのおかげで生きやすくなったことは否めない