jonny's 関ジャニ KAT-TUN

来る日も来る日も

好きなことを好きと言ってみたくなった。

ジャニーズの本質はたまねぎの愛だとおもう

ジャニーズの本質ってなんだとおもいますか? わたしはジャニーさんのなかにあるものだとおもっている。当たり前だ、と言う人もいるかもしれないけれど、これって巷で言われるほど自明なことではない。なぜなら、アイドルはそれ自体意志を持つ人間だから。意志をもつ人間たちがくりひろげる人生やエンターテインメントを通じて、どのそれからも本質的に伝わるものが「ジャニーズ的なもの」である、つまり「ジャニーさん」そのものである、というのは結構大変なことなんじゃないか。 

 

わたしは前投稿

 

jys123.hatenablog.com

で書いたように、ジャニーズにおける三位一体を信仰するオタクである。わたしがおもうジャニーズの三位一体は、偶像としてあらわれることのない「ジャニーさん」(=神)、わたしたちにエンターテイメントを届けてくれる「アイドル」(=預言者エス)、そしてその間を浮遊するエンターテイメント(=聖霊)から成る。そして、アイドルがインタビューで語った言葉やアイドルがジャニーさんの言葉をわたしたちに伝えるミュージカル(=聖典)を通じて、ジャニーズの教えを内面化したいと望む*1

 

ここで問題となるのが、ジャニーズの「本質」である。ジャニーさんがその一生をかけてエンターテイメントの中で伝えてきたことが何かということがわたしは知りたい。なぜなら、その規範と同一化したい、というオタク姿勢をとっているからだ。

ジャニーズの本質とは何か。

それは「愛」である。といってもわたしはこの「愛」という日本語をあまり信用していなくて、たとえば24時間テレビのような短絡的文脈での「愛」に狭められてしまう危険性があるとおもっている。まず「愛」という言葉がよくない。悪くはないんだけれど、よくもない。「愛」というのは、英語でいう「love」の訳語としてここでは使っている。でも、「love」を「愛」に訳したときに捨象されるものこそが、わたしが意図する「愛」なのだ。なんで捨象されるかというと、日本語には英語にあった文脈がないからだ。英語という文脈がないから日本人は「love」を「愛」としてしまうのかもしれない。いやあの、そんな難しいことが言いたいのではなくて、だからまあすごく開けっ広げに誤解しか生まない言い方をすると、日本人がキリスト教徒でない、ということが「愛」という言葉がうまく機能しない要因なのだ。もちろん、日本人にもキリスト教を信じている人はいるんだけれど、それは西洋でそうであったような意味で可能であるわけではない。遠藤周作『深い河』で、大津という日本に生まれ育ったクリスチャンの青年がキリスト教についてこう言う。

 

 五年に近い異国の生活で、ヨーロッパの考え方はあまりに明晰で論理的だと、感服せざるをえませんでしたが、そのあまりに明晰で、あまりに論理的なために、東洋人のぼくには何かが見落とされているようにおもえ、従いていけなかったのです。彼等の明晰な論理や割り切り方はぼくには苦痛でさえありました。

 

また同じく遠藤周作『沈黙』では、江戸時代日本での布教に挫折したフェレイラという宣教師は、次のように言う。

 

二十年間、私は布教してきた。(中略)知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだった。

 

日本人にとってキリスト教は自明なものではない。それはわたしやあなたが「神」を信じていようといまいと関係なく、この国に根付いた文脈である。だから日本語の「愛」は「love」を屈折して伝えてしまうのだ。

では英語で言う「love」とは何なのか。つまり屈折する前の「愛」とはいかなるものなのか。もちろん語源的に言うとキリスト教と英語は厳密には深い関係にあるわけではないけれど、現在の英語文化圏に根付く文脈として、キリスト教は大きな役割を果たしていると言えるだろう。

新約聖書』「コリントの使徒への手紙1 13章」では愛について次のような記述がある。

 

愛は忍耐強い。愛は情け深い。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える 。

 

ここからも、英語的文脈における「love」は恋愛、情愛、といった日本語的文脈で共有されているより、ずっと大きな意味をもつことがわかる。同じく『新約聖書』「コリントの信徒への手紙1 13章」は「信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る。そのなかで最も大いなるものは愛である」とその偉大さを記述している。*2

ちなみにタイトルに使った、「たまねぎ」の愛、というのは遠藤周作『深い河』で大津という青年が神を信じない・拒む美津子という女性に説く言葉から引用した。大津は神、あるいはイエスのことを「たまねぎ」と称した。「たまねぎ」の愛というのは、イエス・キリストの愛だと思ってもらって構わないし、英語の「love」はイエスの愛だとわたしはとらえている。

ここでおもしろいな~とおもうのが、ジャニーさんのお父さんが仏教の僧侶だということ*3。ジャニーさんにとって宗教自体はおそらく身近なものであっただろうけど、それはキリスト教ではない。ちなみに2歳でロサンゼルスから日本に帰国し、思春期を日米の影響下で過ごしたジャニーさんは、第二次大戦後再渡米しアメリカの大学を卒業、でまた来日して上智大学国際部を卒業している。上智や立教の名前がでてくるところからちょっとだけキリスト教とのつながりをみいだせなくもないけれど、両校はカトリックイギリス国教会プロテスタント)で一貫性はないし、とにかくキリスト教的バックグラウンドを見いだすのは難しいだろう。

ジャニーさん自身は*4「日本」というルーツを自分のなかにみているし、キリスト教的価値観に共鳴しているということがジャニーさんの舞台から感じられることはほとんどない。だからジャニーさんがキリスト教的「愛(love)」を見出したのは、おそらくジャニーさん自身のルーツのなかにではなくブロードウェイミュージカルやロサンゼルスのエンターテイメントのなかであったのだとおもう。

ジャニーさんが伝えたい「愛」というのはアメリカの文脈のなかにあるエンターテイメントから生まれたんだとすると結構しっくりくる。アメリカというのは宗教に寛容な国だと誤解されているところがあるけれど、そもそもピルグリム・ファーザーズがはじまりの非常に宗教的な国家だ。有名な話だけれどアメリカ大統領は就任宣誓で聖書に手を置いて職務の遂行を誓う。めちゃくちゃキリスト教が根付いた国だ。そこでのエンターテイメントがもちろんキリスト教の土壌で育つのは自然なことだとおもうし、それに影響を受けたジャニーさんが自分の信条を「愛(love)」としてもったということは想像に難くない。

とまあ、ここまではジャニーズでいう「愛」という言葉の難しさやジャニーさんという個人のバックグラウンドについてみてきたが、じゃあ実際、ジャニーズにおける「愛」ってなんなのか、ということがここで問題になる。

結論から言うと、人間と人間との「関係」がジャニーズにおける「愛」だとわたしはおもう(「関係」より「間柄」という言葉の方がそれっぽいかもしれないけど結局は同じことだ)。

ある人間がある人間と固有の「関係」を築き、壊し、慈しむ。その「関係」が、固有のものであるということが、ジャニーズの「愛」なのだ。それは「恋愛」だとか「親愛」だとか「友愛」だとか、そういう言葉で分類されるべきものではない。友情、恋愛、その他すべての「関係」を包含したうえで、止揚したもの。それがジャニーズの本質たる「愛」であり、「関係」である。

だから、ジャニーズは「シンメ」や「グループ」をかならず持つ。また、ジャニーズのアイドルたちが自分のグループやシンメについて問われて、よく、「他の何とも違う」「形容できない」と答えていることが、「シンメ」や「グループ」が他の何とも違う「関係」であることの証明だとおもう。「シンメ」「グループ」は、「恋愛」「親愛」「友愛」といった任意の彼がもつすべての「関係」であり、またそのすべての「関係」とは異なるものである。

ジャニーズの本質は人間が複数存在することによって生まれる「関係」なのだから、「グループ」「シンメ」をもつのは必然だともいえる*5

これがなんで西欧的文脈をもつ「愛」としてわたしに感じられるかと言うと、ジャニーズのエンターテイメントはこの「関係」への信仰をもっているからだ。

たとえば、「KAT-TUN vs 関ジャニ∞ DREAM BOYS」(2006)では、白い服を着て神様のようにうたうスバル(渋谷すばる)は弟ユウタ(中島裕翔)のためにその命をなげうつ。また、最新映画「少年たち」(2006)では、ジュン(京本大我)が仲間のために死するさまが描かれている。このようなストーリーはたしかに短絡的でお涙頂戴物語に見えるが、大事なのはここに描かれるのが「特別な他者」への「愛」に基づく死であることだ。ジャニーズのストーリーのなかでの死は、「関係」を劇的に見せるためのものでしかなく、むしろジャニーさんが描きたいのは、特別な「関係」であり、執拗なまでにすべての作品でその「関係」を描いている*6

他にも、ジャニーズのエンターテイメントが最も完璧な形で昇華されている(とわたしが感じている)「Endless SHOCK」のメッセージは「Show must go on」だが、コウイチ(堂本光一)は、自らのために「Show must go on」を使命とするわけではない。ライバル(年によって演者が変わる)やリカ(年によって演者が変わる)、カンパニーとの「関係」のなかでショーを続けなければならない、という信条を強くするのだ。

ジャニーさんは、「関係」のなかでのアイドルを描き、その「愛」をメッセージとして伝え続けている。「愛」は万能薬なんかじゃない。舞台上で彼らは「愛」=「関係」に苦しみ、もがき、そしてときにその命をまで「愛」のために失う。

でもそこまでしても、「愛」=「関係」は重要なのである。むしろ、それ以外のなにものも重要ではない。「愛」=「関係」のために人は生き、人は死ぬ。それこそが、ジャニーズの一貫したメッセージだとわたしはおもう。

だから、もう何万回もわたしは繰り返し言い続けているんだけれど、ジャニーズの舞台はトンチキでいいのだ。むしろトンチキでなければならないのだ。なぜなら「愛」を劇的なものとして観客に伝えなければならないから。話の筋とかさ、キャラクターの深みとか、そんなことはどうだっていいのだ。いや、まあ、あった方がいいのかもしれないけど、それがあっても「愛」=「関係」がなければジャニーズの舞台は成立しないのだ。聖書を例にとって考えると、そこで本質的に重要なのは「イエスはいかに愛したか」であって、「イエスは復活したか」ではない。同じことがジャニーズのエンターテイメントにも言えるとおもう。

「愛」の強さを、そのうつくしさを、そのくるしさを、人生における究極性を、観客に伝えるために、観客に見せるために、ジャニーズの舞台はできるだけぶっとんでいて、ありえなくて、感情をドライブする。そうしなきゃ伝わらない。切実さがある。

 

以上が、ジャニーズのエンターテイメントの本質に関するわたしの見解です。

キリスト教的文脈で誕生した「愛」を、エンターテイメントのなかで敬愛したジャニーさんが、それを「関係」として理解し、日本でふたたび、新しいエンターテイメントとして伝えようとしている。そしてそれこそがジャニーズのDNAであり、本質である。

 

わたしも、天職をまっとうして、「愛」を、「関係」を、生きたいなあ、とおもいます。

 

 

 

2019/4/29

スズキアイコ

*1:これはキリスト教で言うとカルヴァン派的なこころの動きだとおもう。カルヴァン派は聖書第一主義をとる他、天職に従事するが、神が我を救済するか否かは神のみぞ知るという姿勢をとる。これに対し、カトリックでは連帯を重視し(=オタクコミュニティ)、修道院のみでしか本格的な禁欲(=天職への契機)を持たない

*2:余談だが、遠藤周作『沈黙』での愛の定義がすごく好き。「魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるなら、それでは誰だってできることだった。そんなものは愛ではなかった。色あせて、襤褸のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった。

*3:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8B%E3%83%BC%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%B7%9D 2019年4月29日最終閲覧

*4:規範的価値判断は置いておくにして、事実として

*5:もちろんいまは俳優いっぽんでソロ活動をする人も多くいるが、それはジュニア時代、あるいはグループの経験で培った「ジャニーズ的なもの」を基礎として、それよりも彼個人の特性を活かした活動であると考えている

*6:本筋には関係ないが、わたしが殉死を肯定しているわけではないということは誤解のないように付け加えておきたい