jonny's 関ジャニ KAT-TUN

来る日も来る日も

好きなことを好きと言ってみたくなった。

ジャニオタ9年目にして同担拒否を発症しました。助けてください

 

 

ジャニオタ9年目にして初めて同担拒否を発症しました。さらに面倒くさいことに、ここでいう同担拒否は一般的に言われるような「推しを恋愛対象として見るが故に他のファンを許せない」という同担拒否ではなく、「推しに関する解釈違いが許せない」という同担拒否です。なぜなら、わたしの場合、推しのことを恋愛対象として見ていないから。というか推しと恋愛したいと思ったことは天に誓って一度もない。

わたしにとって推しとは人生に潤いを与えてくれるアイドルで、それ以上でもそれ以下でもない。わたしの人生に推しは欠かせないものだけど、推しの人生にはなるだけ関わりたくない。最低限のCD購入・ライブ参戦はするが、それは推しのためではなく、わたしの人生に推しのつくるエンターテインメントが必要だからだ。

そういう考えの持ち主だから、いままで同担拒否を発症したことは一度もなかった。つもりだった。むしろ「推しと恋愛がしたい」というのはわたしにとって「推しの解釈違い」でもあるので、同担拒否を忌避していたと言ってもいい。

なのに、推しを推してる人のSNSを見るのがしんどくなって、先日SNSでのフォローをすべて外してしまった。

そして、気づいた。

 

わたし、過激派同担拒否じゃん!!!

 

たしかにいままでリアルでも自担への姿勢や解釈をめぐって論争をくりかえしてきた(わたしはそれが成立している場合、論争が好きだ)し、当時のわたしの自担への態度をめぐって一方的に腹を立て、距離をとったリア友もいる。でもわたしは気づかなかった。これが同担拒否だということに。しかも、大体において、これは推し個人への同担拒否ではなく、推しGを推してる人、もしくはジャニオタ全体への同担拒否なのだ。

 

言ってる意味がわからないと思うので、ここでもう少し具体的な話をしたい(もっとも、わたし自身わたしが何を言ってるのかよくわからない)。

わたしの推しに対する態度は、前述したとおり「人生に潤いを与えてくれるアイドルのエンターテイメントを享受する」というものだ。で、このエンターテイメントを享受する、まではたぶん多くの場合ジャニオタに共有された推しへの態度だと思う。そしてその先ににわたしの場合、「推しへの憧憬」があった。これは人によって異なる部分で、例えば「推しへの恋愛感情」に帰結する人もいるだろうし、わたしは一時期「推しへの信仰」を抱きかけていた。この「推しへの憧憬」と「推しへの信仰」は限りなく近いもので、説明するのが難しいのだけれど、簡単に言うと、推しを「人間」として見るか「神」として見るかの違いだと思ってもらっていいと思う。つまり、推しを「何」として見るかというところに重点が置かれているが、その前の段階まではわたしのなかで「推しへの憧憬」と「推しへの信仰」は同一のものなのだ。

 

ここで、「推しへの憧憬」と「推しへの信仰」の中身として、わたしが普段していることを簡単に説明したい。

 

・推しの仕事を見る

・推しのインタビューを読む

・推しのライフイベントを観察する

 

めちゃくちゃ普通のジャニオタじゃないですか? そうなんですよ。わたしタイプのジャニオタごろごろいるんですよ。だから同担拒否しちゃうんです。

 

わたしは上記の推しへの関わり方を通じて、自分のなかで推しを解釈し、人間をつかみとろうとする。そして、現在は「推しへの憧憬」という態度をとっているため、それをどうかみくだけば自分の人生に引用できるか、もしくは自分の人生観と比して推しはどのような態度で生活に臨んでいるからあんなに素晴らしいのか、を知ろうとする。

この作業は自分の中に「偶像:idol」としての推しをつくりあげていく作業で、世間で言われる推し像とはすこしちがった自分から見た「推し」ができあがる。このステージでの作業はだいたい過去のインタビューや行動を通じて、解釈することが多い。

そして、その作業をある程度終えると、次からはその定理を推しの仕事に援用し解釈するステージにうつる。すなわち、推しの現在進行形の仕事やインタビューと比して自分のなかの「推し」像を調整したり解釈を細部まで深めたりしていく作業だ。そして、基本的には推しを推している状態はこの2つ目のステージでやっている。

ここで、わたしのなかで解釈し再構築した「推し」像は、わたしにとって、「あこがれるべき人間」なわけだが、以前「信仰すべき神様」だった、ということを考えてもらえば、なぜわたしが同担拒否に陥ったのかわかってもらえると思う。

 

みなさんご存知の通り、世界では戦争が絶えない。えっお前なんの話してんの?と思うだろうがちょっと我慢してほしい。

昔から宗教対立というのは、戦争の原因としてありふれたものでもあった。

いま言われるような*1イスラム教とユダヤ教の対立、かつてのドイツ農民戦争ではキリスト教内での宗派が戦争の大義となり得た。

そして、このユダヤ教イスラム教・キリスト教、という3つの大きな宗教では、実は同じ神様を信じているのである。三者は同じ旧約聖書をもち*2、しかし違う宗教を持つ。プロテスタント-カトリシズムの対立なんてもっとわかりやすくて、同じキリスト教で同じ神様を持ち、同じ預言者を持ち、同じ聖書を持つのに、その解釈をめぐって、二者は争うのだ。

 

そう、解釈。

 

わたしが同担拒否をしてしまう理由はここにある。わたしと同じメディアを持ち、同じアイドルを好きなオタクの人と解釈が異なるということに耐えられない。

というか、同担というよりジャニオタ全体に対する態度がこんな感じだ。

めちゃくちゃたとえばかりでわかりにくいのは百も承知だが、先ほどのたとえをもう一度引用し、なおかつわたしが今もアイドルを信仰しているとする。

わたしはキリスト教徒で、わたしのなかでのジャニーズでの神様はジャニー喜多川氏である(顔が見えないから)。そして、アイドルたちは預言者で(だから憧憬する人間たりうる)、彼らがつくるエンターテインメントが聖霊である。わたしはその三位一体を信奉し、聖典を内面化しようとするオタクである。

しかし、このジャニー喜多川氏について、違う聖典を持つオタクがいる。それはイスラム教徒で、オタクたちはジャニー喜多川氏および預言者たるアイドルについて、わたしと違う解釈をする。それは多くの場合、他Gを推していることがその理由になる。プロデュースにジャニーさん以外の雑音が入るのは当然で、我が自担や推しにもあるが、その雑音が受け入れがたい他Gもある。これが、第一の、耐えられないからジャニオタ拒否、につながるところだ。

そして、わたしがキリスト教徒のなかでもプロテスタント*3だとして、カトリックへの同担拒否が生じる。これが第二の同担拒否だ。わたしはアイドルたちへの信仰態度として、聖典に基づくことや、天職に従事することを重視するが、カトリックは教会と伝統を重んじるからである。

これは、同じG(預言者)を推しているオタクが、推し(神・預言者)に対して違う解釈をするということが耐えられない、という心の動きであり、私にとっての第二の同担拒否である。

 

おわかりいただけただろうか。

 

そんなこんなで、同担拒否を発症し、推しに対する他者の解釈を受け入れがたくなってきた。自担についても、他Gについても「この人は!」と思う、解釈の一致する人(=キリスト教プロテスタント、という細かい流派まで一致する人)はたまにいて、そういう人の推しやジャニー喜多川氏の解釈を読んでるのは楽しいのだけれど、いかんせん少ないし、「エイト箱推し」「ろくーん派」「98line」のようにわかりやすくは示せない。

 

だからわたしは今日も、ジャニオタのともだちが欲しい……と呪文を唱えながらブロックするのである。

 

ああ、はやく自担になりたい……。

 

 

 

 

2019.4.20

 

スズキアイコ

 

 

*1:宗教が根源的な原因かは論争があるにしろ

*2:これがどのように機能するかはまた別の話だけれど

*3:具体的にイギリス国教会がどうだとかルター派がどうだとかは省く