jonny's 関ジャニ KAT-TUN

来る日も来る日も

好きなことを好きと言ってみたくなった。

生まれて初めて錦戸亮さんに会ってきました

白洋舎にワンピースをとりにいった。1700円だった。お気に入りのワンピースはドライクリーニングしかできないもので、汚れてはいないけれど絶対に7/14をいちばんそれが綺麗な状態で迎えたかった。それを丁寧に畳んでスーツケースにいれた。


生まれて初めて、錦戸亮さんに会ってきた。


わたしが関ジャニ∞を推し始めたのは、たしか去年の9月ごろ。絶対零度の横山さんが綺麗だったとか、ananの大倉さんがかっこよかったとか、いつも通り「いつの間にか」ハマっていた。ずっとだれが推しとは決まっていなかったけれど、GR8ESTの円盤を見て、わたしの知るのとは違う錦戸亮さん*1がいて、わたしは錦戸さんを中心に推し始めた。


当落が出てからとった飛行機は、自宅から始発で行っても間に合わない早朝発で、生まれて初めて空港泊をした。一睡もできなかった。久しぶりに乗る飛行機はLCCで、水ももっていないのに空の上で頭が割れるように痛んだ。薬はそこにあるのに水をくださいとも言えずに唾を飲み込んだ。

札幌。

12日の朝には到着していたけれど、結局観光はその12日だけしかしなかった。あしたがライブだと思えば、13日は何もできなかったし、14日はもっとそうだった。


怒気さえも孕んだように聞こえる歓声のなかで、錦戸亮さんが、関ジャニ∞がステージにいた。ブルーレイで何度も繰り返した見たあの美しい顔がスクリーンいっぱいに映し出されていた。錦戸さんは踊って歌って叫んでいた。

わたしはきっとこの公演を見て、「錦戸亮、生きてる……」という感想を抱くと思っていた。わたしの中での錦戸亮はそれくらい存在が遠いものだった。

そして確かに錦戸さんは生きてた。でも、違った。錦戸亮は、意志を持った人間としてそこに存在していた。アイドルとして歌い踊るすべての仕草に動作に、錦戸亮錦戸亮を選んで生きている意志を感じた。

わたしは歓声の一部になった。錦戸さんが歌っていて、錦戸さんが踊っていて、錦戸さんが笑っていて、わたしはそれが奇跡だと思った。


終わった瞬間、膝が震えた。立てないと思った。このままここに座り込んでしまいたいと思った。喉が痛かった。もう声なんて出ないと思った。


しあわせだと思った。


わたしが生活の中で抱えている不安とか、不満とか、生きづらさとか、そういうものがなくなったわけじゃないのに、それでもわたしはしあわせだった。身体が震えるくらいしあわせを噛み締めていた。わたしはわたしがしあわせになれることを久しぶりに思い出した。そうだった。わたしはしあわせという感情を記憶してる。たぶん、薄暗い感情を抱え始めた高校生のころ以来、こんなに長い間しあわせを噛み締めたのは初めてだったと思う。バイトの残業代はこの二年で1000円分くらいしか出てないし、来年から働く会社の懇親会はわたしのいないところで執り行われてるし、楽しくもない来週のゼミのコンパの幹事を免除されたわけではない。それら全てを許せない気持ちとはべつのところにわたしはいた。わたしはしあわせだった。


わたしの十五祭は札幌、名古屋初日三日目の三公演で、そのうちの二公演が終わったいまでも十五祭に関する記憶はほとんどない。断片的な涙が自分の身に降り注いだこと、錦戸さんが笑ったこと、関ジャニ∞が笑っていたこと。それくらいのものだった。

ただあの大きな歓声の中に自分がいて、そしてステージの上には息をするアイドルがいた。それを肉眼で確認できたし、おもちゃのようにぎこちなかった想像の中の関ジャニ∞の動作は、なめらかに動くようになった。


いままで、ライブというもののことをあまり信用してなかった。反復不可能な時間に何万もかけるのはコスパが悪いと思っていたし、ライブ中でも他人に見えている自分が気になってしまってうまく楽しめなかった。それがこのように変化したのは、単にわたしが年を重ねたからかもしれないし、バイトでお金を稼いだからかもしれないし、大学生活のなかで「笑われない」服装や身の振り方を否応なしに身につけたからかもしれない*2。あるいは、それらを忘れさせるだけの力が関ジャニ∞にあったのかもしれない。とにかく、わたしはそこにいるアイドルに圧倒されることができたし、それはあまりに甘美な体験だった。


アイドルのことを愛していいのか、わたしは彼らを好きでいていいのか、わからなくなることがある。それはわたしの生きづらさと関係していることもあるし、関係していないこともある。彼らを愛することは、彼らを傷つけることなんじゃないかという悩みは消えていないし、彼らの言動のなかにはどうやっても許容できないものもある。

それなのに、これだけ圧倒的なしあわせを感じてしまった。

若輩者のわたしにはよくわかっていなかった(し、いまもよくわからない)けれど、たぶん、たぶんに、ひとのいる世界でひとと関係を持って生きるというのは、きっとそういうことなんじゃないかと思った。許せないことも傷つけることもあるけれど、それでも圧倒的な感情のために、あるいは静かなしあわせのために、関係のなかを生きてしまう。わたしはアイドルとの関係のなかに生きることにしあわせを知った。この関係のなかを、アイドルを傷つけながら、アイドルに怒りながら、きっと、しばらくは生きるのだろうと思う。


とりあえず、今日の名古屋公演がわたしの十五祭のオーラスになる。圧倒的なしあわせを、全身に浴びてきます。



2019.7.21




*1:むかしNEWSを推していたときに見ていたのとは印象が違ったという意味

*2:わたしの大学生活の半分は「誰からも笑われない」人間になることに注がれた。バカバカしいといまは思うけどそのおかげで生きやすくなったことは否めない

錦戸亮にとって内博貴の喪失とは何だったのか

はじめに

錦戸亮にとっての内博貴の喪失とは、何だったのか。この問題は、錦戸亮内博貴という個別のケースに関する記述を超えていると私は考えている。なぜなら、以前下記記事

 

jys123.hatenablog.com

 

で述べたように、内さんと錦戸さんはまさしくシンメであったからだ。ここでは「シンメの喪失」にこそ、シンメの本質が現れるという論を展開したうえで、錦戸さんが内さんを失ったあとにどのようなキャリアを積んだのか、ということをごく手短に記述した。しかし、これはシンメの本質を表すのには不十分であったと現在は考えている。

シンメというものが「自己を映す鏡」として機能するとするならば、「シンメを失ったあとに錦戸亮が変化した」というのでは不十分である。重要な問いは「どのように錦戸亮が変化したのか」ということだからである。

そこで、この記事では“内亮”というひとつのシンメトリーの喪失を記述することによって、シンメトリーを失ったアイドルは、個人としてどのような変化を経るのか、という問いに答えたい。ひいては、それによってシンメトリーにとっての片割れの存在について、より正確な判断が得られることを期待する。

 

(初めに断っておきますが、これは学術的な論文をまともに書いたこともない学部生の戯言なので、わけわからんわ!というところがあればコメントでやさしく教えてくれると嬉しいです……)

 

内亮のその日まで

まず、内さんと錦戸さんがどのようなシンメトリーだったのか、という点について簡単に見ていこう。

錦戸さんは1997年に入所、1999年に内さんは事務所に入り、2002年に関ジャニ8が結成される。錦戸さんはジュニア時代について話すとき、関西だから、東京だから、というのもはあまり考えていなかった、と語る。彼自身が一人で東京でやっている、という意識があったからだ。しかし、内さん加入後は、内亮はセットで売られるようになり、2003年、NewS(のちのNEWS)が結成された際もこの2人が関西から抜擢された。錦戸さんが2011年にNEWSを脱退して以来、ジャニーズには掛け持ちのタレントは1人もいない*1

しかも、当時の関ジャニ8はCDデビュー前。たとえば、同じようにメンバーのうちの1人がNewSとしてデビューした当時の4Tops(山下智久生田斗真風間俊介、長谷川純)は空中解体したし、関ジャニ8だってその運命を逃れられないと考えるのが普通だ。しかし、(本当にこのときジャニーさんが何を考えていたのかわからないけど)なぜか内亮だけは関ジャニ8を脱退することなく、前代未聞の掛け持ちをこなすようになる。NEWSの序列は当時、山下智久内博貴錦戸亮、K.K.Kitty、テゴマス*2であり、内亮は二番手、関ジャニ8ではツートップとしてグループを牽引する立場にあった。関ジャニ∞は2004年に念願のデビューを果たし、2005年、内亮ははじめての連ドラ「がんばっていきまっしょい」にメインで出演する。 

そしてその日は来る。

2005年7月16日。

内博貴(当時19歳)は未成年飲酒が発覚し、補導される。そして、無期限活動休止を言い渡される。

その後草野博紀(NEWS)の未成年飲酒容疑も発覚し、NEWSは無期限活動休止となるも、関ジャニ∞は活動自体は継続した。錦戸さんは内さんの代役にKAT-TUN田口淳之介を迎えて、ドラマ「がんばっていきまっしょい」を完遂し、その後ドラマ「1リットルの涙」の際にはジャニーさん(とメンバーの大倉さん)に「東京に住んで死ぬ気で頑張ります」と伝え、上京する。

 

とまあ、内さんを失うまでの内亮についてはこれくらいしかわたしは記述できない(だって当時推してたわけじゃないしね)。

 

根源的偶有性

では、ここから本題に入っていきたいとおもう。「錦戸亮にとって内博貴の喪失とは何だったのか」という問いである。

ここで、わたしがこの記事を書くきっかけとなった本について紹介しておきたい。

大澤正幸(2018)「自由という牢獄――責任・公共性・資本主義」(岩波書店)。

 

 

ここで引用したいのは本書の第2章「責任論」で提示される「根源的偶有性」という観念である。

偶有性とは、大澤によると「差異性の様相、『他でもありえた』という様相」のことである。そして、根源的偶有性とは、「固有名によって指示される〈同一性〉と表裏一体になっている偶有性」である。難しいね。

すごく大雑把に言うと、「そうであったかもしれない自分」が根源的偶有性だ。たとえば、“村上信五”はどこで誰と何をしていても“村上信五”である、ということに疑問を持つ人はいないだろう。じゃあその村上信五とは何なのか、と言えば、「関ジャニ∞のメンバー」であり、「月曜から夜更かしのメインMC」であり、「嵐のメンバー」ではない。

しかし、もし村上信五が「嵐のメンバー」であって、「月9主演俳優」だったとしても、村上信五村上信五であることには変わりはない。このような、村上信五村上信五である、というときに考えうる、「嵐の村上信五」あるいは「村上信五だったかもしれない村上信五」が、ここで示されている偶有性である。

通常、名前というのは性質の記述によって語りつくされると考えている。しかし、「関ジャニ∞のメンバー」「月曜から夜更かしのメインMC」「八重歯」などの性質をすべて満たしていたとしてもそれが村上信五であると言えるかどうかについて、疑問の余地はあるのである。

詳しくは、この『自由という牢獄』の第2章「責任論」を参照してほしい。

 

ここで、なぜ唐突に「根源的偶有性」の話をしたのかというと、この根源的偶有性はときに重い罪責感をもたらすからである。

大澤はヤスパースの提示する第4の責任「形而上的責任」が、根源的偶有性ゆえに現れるということを指摘する。この形而上的責任というのは、たとえば「戦争の時代にいたのに自分は死ななかった」ことに対する罪責感を指す。刑法上、政治上、道徳上のあらゆる罪を帰せられる責任がないにも関わらず、自らが責任を負っているように思える。その理由は、戦争で死んだ人と自分との間にそうであることが必然であるような差がないからである。私ももしかしたら死んでいたかもしれないのに、なぜか私は生きている。それがこの形而上的責任をもたらすのだ。

形而上的責任を有効に引き受けることができないときには、人は他のあらゆる責任、つまり私が私であることに帰せられる責任を引き受けることは不可能であると大澤は言う。この本の中では、阪神淡路大震災でいつもより30分早く起きたために2階にいて助かったが、夫が亡くなった女性の話が引かれており、彼女がその形而上的責任を負って離人感覚などの諸症状を経験したことが示されている。

 

ここで私が強調したいのは、形而上的責任は、「私が私であること」と「私が私でないこと」の2つの選択肢があるときに自らその選択肢を選べなかったに由来するということである。むしろ、その選択肢のうちのひとつを暴力的に奪われたことによって、そのときに選択肢があったことを知るのだ。上の例に従うと、30分早く起きたとき彼女は30分早く起きるという選択をしたつもりは毛頭なかっただろう。しかし、いつも通り寝ていた夫が亡くなったことによって、「いつも通り寝る」「30分早く起きる」、というそのときあった2つ選択肢を自覚し、自らが選ばなかったものに従った夫を失ったことについて、まるで「そうであったかもしれない私」を失ったかのように感じるのだ。

 

内博貴のシンメトリーである錦戸亮>と<内博貴のシンメトリーでない錦戸亮>という選択

さて、ここで内さんと錦戸さんの話に話を戻そう。内さんを失ったときについて、錦戸さんは八祭のパンフレット「Dear Eighter..」(2012)

 

 

で次のように述べている。

 

安田:当時、亮ちゃんはメンバーの中でも一番親交が深かったしね。そんな内がああいうことになったって話はどうやって知ったの?

錦戸:ドラマの『がんばっていきまっしょい』の撮影で行ってたロケ先で、マネージャーさんから電話掛かってきて聞いた。内とはさ、関ジャニ∞もNEWSもそうやし、そのときはドラマも一緒にやってたやん。でな、実はその少し前から、理由は忘れちゃったけど内とケンカしてあんまりしゃべってなくてさ…その矢先にそれで。だからその瞬間はムカつくとか、なんなのか、よく分からへんかった。

安田:メンバーの中では亮が一番複雑な心境やねんな、っていうのは分かってたけどね。

錦戸:少ししてからライブの稽古場に内が謝りに来たやん? “初めての連ドラで頑張ってる最中にお前なにしとんねん!”って気持ちとか、やっぱりもちろん内自身のことも心配してたし、いろんな気持ちが爆発しちゃって…本気でしばいてしまった。アイツがやってしまったことはやってしまったことで反省しなくちゃいけないけど、内自身は男前でノリもよかったりさ、ええヤツやん。…とにかくいろんな感情全部まとめて、めっちゃ悔しかってん。

安田:でも怒るのってしんどいやん? だからしばいてる亮も胸が痛かったんやろなと思う。

大倉:あのとき、オレが『やめろ!』って言ったら『お前には分からんやろ!』って言われて、心の中で“確かに分からん”って思ったもん。

 

 

このパンフレットでは全メンバーに内さんの話がふられているが、錦戸さん以外のメンバーは「このピンチをどうやってチャンスに変えるか」という話、または「亮が一番辛かったと思う」という話に終始しており、内さんへの自分自身の感情の話は「2012年現在」の軸では触れられても、当時の時間軸では触れられていない。

しかし錦戸さんはここで、「その瞬間はムカつくとか、なんなのか、よく分からへんかった」「とにかくいろんな感情全部まとめて、めっちゃ悔しかってん」と当時の感情を表現している。

ここで注目したいのは、錦戸さんがこの感情を「よく分からへんかった」と表現している、ということである。自分自身さえも理解できない感情が錦戸さんの中にあった。

 

それは、根源的偶有性が暴力的に奪われたからではないだろうか。

 

通常ジャニーズのタレントは自身のキャリアを選ぶことができない。明日にはドラマ班からMC担当になっているかもしれないし、毎年やっていた舞台だって来年にはないかもしれない。

でもデビュー組には唯一、これだけは疑わずにいてよいものがある。それが、グループとメンバーだ。グループとメンバーだけは(本人たちの意思なくしては)一方的に奪われない。だからメンバーたちはそのグループを絶対視するし、一蓮托生の空気感が生まれるのである。錦戸さんと内さんは、NEWSであることも関ジャニ∞であることも「選べなかった」し、一方的に与えられた道である。しかし、唯一疑わなくてよいもの、激動の中にあった変化しなかったものがあった。それが内さんにとっては<錦戸亮のシンメトリーである内博貴>であり、錦戸さんにとっては<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>だった。それだけは、どこにいても、<NEWSの錦戸亮>である間も<関ジャニ∞内博貴>である間も、変化しなかった。

 

しかし、2005年7月16日を境に、<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>は一方的に奪われた。

 

その日内さんがお酒を飲まなかったら、内さんをひとりにしなかったら、ずっと前のケンカがなかったら、その日事件がなかったら、内さんは謹慎処分にならなかった。<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>はどう考えても継続できたのに、いまの自分は<内博貴のシンメトリーでない錦戸亮>である。その<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>も<内博貴のシンメトリーでない錦戸亮>も錦戸さんは選択しえなかった。

分岐点は確かにあった。でもそれを自分は選択していない。

<私>が<私>であることの責任をとれなくなること、それが根源的偶有性の喪失である。錦戸さんはそれを喪失した後も、立ち止まることができなかった。ドラマ「がんばっていきまっしょい」はKAT-TUN田口淳之介にキャストを変えて放送され、錦戸亮の名を日本中に轟かせるきっかけとなったドラマ「1リットルの涙」はその冬に放送された。しかし、<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>は錦戸さんの周囲を浮遊していて、そのけじめがついていたとは到底言えなかっただろう。

内さんが研修生として無期限活動休止処分から復帰したときについて、錦戸さんは同じく八祭パンフレットでこう語る。

 

錦戸:オレね、内が復帰した舞台『PLAYZONE ’07 Change 2 Chance』観に行ったんやけど、もう途中から涙が止まらなくなっちゃって、全然観られへんかったもん。『よし、頑張れ』って。あとこれは結果論やけど、あのことがあって“メンバー7人で頑張ろう”ってなれたわけやん? だからあのことがなかったら、今の関ジャニ∞はなかったと思うしね。

安田:それはほんまにそうやね。

 

 

「これは結果論やけど、あのことがあって“メンバー7人で頑張ろう”ってなれたわけやん?」と錦戸さんは語る。それは裏を返せば、「結果論で語れなかった時期」があったということである。錦戸さんは次のように続ける。

 

錦戸:はっきり言って、内のことってあれ以来なんとなくグレーというか、デリケートな感じになってたやん? 取材とかでも内の話をすることはなかったし、聞かれることもなかった。でもこの話はいつかオレの口から絶対せなあかんと思ってたし。きっとこの話をするのもこれが最初で最後やと思うから話せてよかった。だからね、オレはEighterのみんなに言おうと思ってる。「8人目の関ジャニ∞はあなたです」って。もう堂々と言っていくから。

 

ここから、錦戸さんはこの2012年の段階では、もう<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>を自己から切り離し、<内博貴のシンメトリーではない錦戸亮>として生きることを引き受けているということがわかる。つまり、錦戸さんは根源的偶有性に由来する形而上的責任を引き受け、私が私であるこによって帰せられるすべての責任を引き受けられる状態になっている。

 

では、<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>を自己から切り離すことができたのはいつだろうか。

もしくは、それが可能であるような状況とは、どんな状況なのだろうか。

おそらく、一番てっとり早いのは、2005年7月16日に戻って、<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>と<内博貴のシンメトリーでない錦戸亮>を比較検討して、<内博貴のシンメトリーでない錦戸亮>を選び取る、ということだろうが、それは全くもって現実的ではない。

しかし、それは次の逆説的な事実を意味する。つまり、<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>が現前したときにはじめて、<内博貴のシンメトリーでない錦戸亮>が選択可能になる、ということである。

そして<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>が現前したときが一度だけあった。

それは、「関ジャニ∞ えっ!ホンマ!?ビックリ!!TOUR 2007」(通称:47都道府県ツアー)の東京ドーム公演でのことだった。

7人での47都道府県ツアー、その東京ドーム公演のアンコールのステージに内さんが立ったのである。錦戸さんのツアーTシャツを着た内さんは、「おれたちが最高で最強の関ジャニ∞!!」という例の挨拶を行った。

このときについて、錦戸さんは『関ジャニ∞エイト「えっ! ホンマ!? ビックリ!! TOUR 2007」密着ドキュメント写真集』

 

 

の中で

東京ドームで見た一度は失ったはずの可能性

と表現する。

その後、大倉さんのweb更新での「one for eight」の記載が消えるなど、何かしらの形で「内さんが関ジャニ∞に復帰しない」ということが選択されたと思われる。しかし、ここで重要なのは、誰がどうやってそれを決めたか、ではない。

錦戸さんが東京ドームで、<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>、<錦戸亮のシンメトリーである内博貴>を目の前に見ることができた。そして、それを「一度は失ったはずの可能性」として認識している、ということである。

つまり、宙ぶらりんだった<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>を再び捉えなおすことができた。彼は自分の根源的偶有性を目の前で把捉して、そして今の自分を自分の責任において選ぶことができた。それが、彼に「だからね、オレはEighterのみんなに言おうと思ってる。『8人目の関ジャニ∞はあなたです』って。もう堂々と言っていくから。」と言わせることができた、理由なのではないだろうか。

 

 

初めの問いに戻ろう。

錦戸亮にとって内博貴の喪失とは何だったのか」。それは、<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>の喪失であり、自己同一性(アイデンティティ)の根底を揺るがす問題だった。それはなぜかというと、シンメトリーというものがアイドルにとって唯一の拠り所となりうるにも関わらず、錦戸亮は<内博貴のシンメトリーである錦戸亮>という偶有性を一方的に奪われたからである。

 

しかし、錦戸さんはそれを乗り越えることに成功した。それは、他でもない内博貴がまた錦戸亮と同じステージに立ったからであり、だからこそ彼は<内博貴のシンメトリーでない錦戸亮>を受け入れることができた。

 

シンメトリーというのは、互いにとって唯一無二の存在である。自身の存在の拠り所にもなりうるが、そうである間はそれを自覚しない。だからこそ、片割れを失ったときには、他人に拠らない自己の引き受けが必要となるのであり、その喪失の経験と自己の引き受けは、彼にとって重要な意味を持つと私は信じる。

 

 

 

2019年5月16日

スズキアイコ

*1:NYCは扱いが難しいので置いとくむしろ、グループを掛け持ちしたタレントは内亮とやまちねの2組だけなのだ

*2:森くんはすぐに脱退したのでここには含めえない

ジャニーズの本質はたまねぎの愛だとおもう

ジャニーズの本質ってなんだとおもいますか? わたしはジャニーさんのなかにあるものだとおもっている。当たり前だ、と言う人もいるかもしれないけれど、これって巷で言われるほど自明なことではない。なぜなら、アイドルはそれ自体意志を持つ人間だから。意志をもつ人間たちがくりひろげる人生やエンターテインメントを通じて、どのそれからも本質的に伝わるものが「ジャニーズ的なもの」である、つまり「ジャニーさん」そのものである、というのは結構大変なことなんじゃないか。 

 

わたしは前投稿

 

jys123.hatenablog.com

で書いたように、ジャニーズにおける三位一体を信仰するオタクである。わたしがおもうジャニーズの三位一体は、偶像としてあらわれることのない「ジャニーさん」(=神)、わたしたちにエンターテイメントを届けてくれる「アイドル」(=預言者エス)、そしてその間を浮遊するエンターテイメント(=聖霊)から成る。そして、アイドルがインタビューで語った言葉やアイドルがジャニーさんの言葉をわたしたちに伝えるミュージカル(=聖典)を通じて、ジャニーズの教えを内面化したいと望む*1

 

ここで問題となるのが、ジャニーズの「本質」である。ジャニーさんがその一生をかけてエンターテイメントの中で伝えてきたことが何かということがわたしは知りたい。なぜなら、その規範と同一化したい、というオタク姿勢をとっているからだ。

ジャニーズの本質とは何か。

それは「愛」である。といってもわたしはこの「愛」という日本語をあまり信用していなくて、たとえば24時間テレビのような短絡的文脈での「愛」に狭められてしまう危険性があるとおもっている。まず「愛」という言葉がよくない。悪くはないんだけれど、よくもない。「愛」というのは、英語でいう「love」の訳語としてここでは使っている。でも、「love」を「愛」に訳したときに捨象されるものこそが、わたしが意図する「愛」なのだ。なんで捨象されるかというと、日本語には英語にあった文脈がないからだ。英語という文脈がないから日本人は「love」を「愛」としてしまうのかもしれない。いやあの、そんな難しいことが言いたいのではなくて、だからまあすごく開けっ広げに誤解しか生まない言い方をすると、日本人がキリスト教徒でない、ということが「愛」という言葉がうまく機能しない要因なのだ。もちろん、日本人にもキリスト教を信じている人はいるんだけれど、それは西洋でそうであったような意味で可能であるわけではない。遠藤周作『深い河』で、大津という日本に生まれ育ったクリスチャンの青年がキリスト教についてこう言う。

 

 五年に近い異国の生活で、ヨーロッパの考え方はあまりに明晰で論理的だと、感服せざるをえませんでしたが、そのあまりに明晰で、あまりに論理的なために、東洋人のぼくには何かが見落とされているようにおもえ、従いていけなかったのです。彼等の明晰な論理や割り切り方はぼくには苦痛でさえありました。

 

また同じく遠藤周作『沈黙』では、江戸時代日本での布教に挫折したフェレイラという宣教師は、次のように言う。

 

二十年間、私は布教してきた。(中略)知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだった。

 

日本人にとってキリスト教は自明なものではない。それはわたしやあなたが「神」を信じていようといまいと関係なく、この国に根付いた文脈である。だから日本語の「愛」は「love」を屈折して伝えてしまうのだ。

では英語で言う「love」とは何なのか。つまり屈折する前の「愛」とはいかなるものなのか。もちろん語源的に言うとキリスト教と英語は厳密には深い関係にあるわけではないけれど、現在の英語文化圏に根付く文脈として、キリスト教は大きな役割を果たしていると言えるだろう。

新約聖書』「コリントの使徒への手紙1 13章」では愛について次のような記述がある。

 

愛は忍耐強い。愛は情け深い。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える 。

 

ここからも、英語的文脈における「love」は恋愛、情愛、といった日本語的文脈で共有されているより、ずっと大きな意味をもつことがわかる。同じく『新約聖書』「コリントの信徒への手紙1 13章」は「信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る。そのなかで最も大いなるものは愛である」とその偉大さを記述している。*2

ちなみにタイトルに使った、「たまねぎ」の愛、というのは遠藤周作『深い河』で大津という青年が神を信じない・拒む美津子という女性に説く言葉から引用した。大津は神、あるいはイエスのことを「たまねぎ」と称した。「たまねぎ」の愛というのは、イエス・キリストの愛だと思ってもらって構わないし、英語の「love」はイエスの愛だとわたしはとらえている。

ここでおもしろいな~とおもうのが、ジャニーさんのお父さんが仏教の僧侶だということ*3。ジャニーさんにとって宗教自体はおそらく身近なものであっただろうけど、それはキリスト教ではない。ちなみに2歳でロサンゼルスから日本に帰国し、思春期を日米の影響下で過ごしたジャニーさんは、第二次大戦後再渡米しアメリカの大学を卒業、でまた来日して上智大学国際部を卒業している。上智や立教の名前がでてくるところからちょっとだけキリスト教とのつながりをみいだせなくもないけれど、両校はカトリックイギリス国教会プロテスタント)で一貫性はないし、とにかくキリスト教的バックグラウンドを見いだすのは難しいだろう。

ジャニーさん自身は*4「日本」というルーツを自分のなかにみているし、キリスト教的価値観に共鳴しているということがジャニーさんの舞台から感じられることはほとんどない。だからジャニーさんがキリスト教的「愛(love)」を見出したのは、おそらくジャニーさん自身のルーツのなかにではなくブロードウェイミュージカルやロサンゼルスのエンターテイメントのなかであったのだとおもう。

ジャニーさんが伝えたい「愛」というのはアメリカの文脈のなかにあるエンターテイメントから生まれたんだとすると結構しっくりくる。アメリカというのは宗教に寛容な国だと誤解されているところがあるけれど、そもそもピルグリム・ファーザーズがはじまりの非常に宗教的な国家だ。有名な話だけれどアメリカ大統領は就任宣誓で聖書に手を置いて職務の遂行を誓う。めちゃくちゃキリスト教が根付いた国だ。そこでのエンターテイメントがもちろんキリスト教の土壌で育つのは自然なことだとおもうし、それに影響を受けたジャニーさんが自分の信条を「愛(love)」としてもったということは想像に難くない。

とまあ、ここまではジャニーズでいう「愛」という言葉の難しさやジャニーさんという個人のバックグラウンドについてみてきたが、じゃあ実際、ジャニーズにおける「愛」ってなんなのか、ということがここで問題になる。

結論から言うと、人間と人間との「関係」がジャニーズにおける「愛」だとわたしはおもう(「関係」より「間柄」という言葉の方がそれっぽいかもしれないけど結局は同じことだ)。

ある人間がある人間と固有の「関係」を築き、壊し、慈しむ。その「関係」が、固有のものであるということが、ジャニーズの「愛」なのだ。それは「恋愛」だとか「親愛」だとか「友愛」だとか、そういう言葉で分類されるべきものではない。友情、恋愛、その他すべての「関係」を包含したうえで、止揚したもの。それがジャニーズの本質たる「愛」であり、「関係」である。

だから、ジャニーズは「シンメ」や「グループ」をかならず持つ。また、ジャニーズのアイドルたちが自分のグループやシンメについて問われて、よく、「他の何とも違う」「形容できない」と答えていることが、「シンメ」や「グループ」が他の何とも違う「関係」であることの証明だとおもう。「シンメ」「グループ」は、「恋愛」「親愛」「友愛」といった任意の彼がもつすべての「関係」であり、またそのすべての「関係」とは異なるものである。

ジャニーズの本質は人間が複数存在することによって生まれる「関係」なのだから、「グループ」「シンメ」をもつのは必然だともいえる*5

これがなんで西欧的文脈をもつ「愛」としてわたしに感じられるかと言うと、ジャニーズのエンターテイメントはこの「関係」への信仰をもっているからだ。

たとえば、「KAT-TUN vs 関ジャニ∞ DREAM BOYS」(2006)では、白い服を着て神様のようにうたうスバル(渋谷すばる)は弟ユウタ(中島裕翔)のためにその命をなげうつ。また、最新映画「少年たち」(2006)では、ジュン(京本大我)が仲間のために死するさまが描かれている。このようなストーリーはたしかに短絡的でお涙頂戴物語に見えるが、大事なのはここに描かれるのが「特別な他者」への「愛」に基づく死であることだ。ジャニーズのストーリーのなかでの死は、「関係」を劇的に見せるためのものでしかなく、むしろジャニーさんが描きたいのは、特別な「関係」であり、執拗なまでにすべての作品でその「関係」を描いている*6

他にも、ジャニーズのエンターテイメントが最も完璧な形で昇華されている(とわたしが感じている)「Endless SHOCK」のメッセージは「Show must go on」だが、コウイチ(堂本光一)は、自らのために「Show must go on」を使命とするわけではない。ライバル(年によって演者が変わる)やリカ(年によって演者が変わる)、カンパニーとの「関係」のなかでショーを続けなければならない、という信条を強くするのだ。

ジャニーさんは、「関係」のなかでのアイドルを描き、その「愛」をメッセージとして伝え続けている。「愛」は万能薬なんかじゃない。舞台上で彼らは「愛」=「関係」に苦しみ、もがき、そしてときにその命をまで「愛」のために失う。

でもそこまでしても、「愛」=「関係」は重要なのである。むしろ、それ以外のなにものも重要ではない。「愛」=「関係」のために人は生き、人は死ぬ。それこそが、ジャニーズの一貫したメッセージだとわたしはおもう。

だから、もう何万回もわたしは繰り返し言い続けているんだけれど、ジャニーズの舞台はトンチキでいいのだ。むしろトンチキでなければならないのだ。なぜなら「愛」を劇的なものとして観客に伝えなければならないから。話の筋とかさ、キャラクターの深みとか、そんなことはどうだっていいのだ。いや、まあ、あった方がいいのかもしれないけど、それがあっても「愛」=「関係」がなければジャニーズの舞台は成立しないのだ。聖書を例にとって考えると、そこで本質的に重要なのは「イエスはいかに愛したか」であって、「イエスは復活したか」ではない。同じことがジャニーズのエンターテイメントにも言えるとおもう。

「愛」の強さを、そのうつくしさを、そのくるしさを、人生における究極性を、観客に伝えるために、観客に見せるために、ジャニーズの舞台はできるだけぶっとんでいて、ありえなくて、感情をドライブする。そうしなきゃ伝わらない。切実さがある。

 

以上が、ジャニーズのエンターテイメントの本質に関するわたしの見解です。

キリスト教的文脈で誕生した「愛」を、エンターテイメントのなかで敬愛したジャニーさんが、それを「関係」として理解し、日本でふたたび、新しいエンターテイメントとして伝えようとしている。そしてそれこそがジャニーズのDNAであり、本質である。

 

わたしも、天職をまっとうして、「愛」を、「関係」を、生きたいなあ、とおもいます。

 

 

 

2019/4/29

スズキアイコ

*1:これはキリスト教で言うとカルヴァン派的なこころの動きだとおもう。カルヴァン派は聖書第一主義をとる他、天職に従事するが、神が我を救済するか否かは神のみぞ知るという姿勢をとる。これに対し、カトリックでは連帯を重視し(=オタクコミュニティ)、修道院のみでしか本格的な禁欲(=天職への契機)を持たない

*2:余談だが、遠藤周作『沈黙』での愛の定義がすごく好き。「魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるなら、それでは誰だってできることだった。そんなものは愛ではなかった。色あせて、襤褸のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった。

*3:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8B%E3%83%BC%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%B7%9D 2019年4月29日最終閲覧

*4:規範的価値判断は置いておくにして、事実として

*5:もちろんいまは俳優いっぽんでソロ活動をする人も多くいるが、それはジュニア時代、あるいはグループの経験で培った「ジャニーズ的なもの」を基礎として、それよりも彼個人の特性を活かした活動であると考えている

*6:本筋には関係ないが、わたしが殉死を肯定しているわけではないということは誤解のないように付け加えておきたい

ジャニオタ9年目にして同担拒否を発症しました。助けてください

 

 

ジャニオタ9年目にして初めて同担拒否を発症しました。さらに面倒くさいことに、ここでいう同担拒否は一般的に言われるような「推しを恋愛対象として見るが故に他のファンを許せない」という同担拒否ではなく、「推しに関する解釈違いが許せない」という同担拒否です。なぜなら、わたしの場合、推しのことを恋愛対象として見ていないから。というか推しと恋愛したいと思ったことは天に誓って一度もない。

わたしにとって推しとは人生に潤いを与えてくれるアイドルで、それ以上でもそれ以下でもない。わたしの人生に推しは欠かせないものだけど、推しの人生にはなるだけ関わりたくない。最低限のCD購入・ライブ参戦はするが、それは推しのためではなく、わたしの人生に推しのつくるエンターテインメントが必要だからだ。

そういう考えの持ち主だから、いままで同担拒否を発症したことは一度もなかった。つもりだった。むしろ「推しと恋愛がしたい」というのはわたしにとって「推しの解釈違い」でもあるので、同担拒否を忌避していたと言ってもいい。

なのに、推しを推してる人のSNSを見るのがしんどくなって、先日SNSでのフォローをすべて外してしまった。

そして、気づいた。

 

わたし、過激派同担拒否じゃん!!!

 

たしかにいままでリアルでも自担への姿勢や解釈をめぐって論争をくりかえしてきた(わたしはそれが成立している場合、論争が好きだ)し、当時のわたしの自担への態度をめぐって一方的に腹を立て、距離をとったリア友もいる。でもわたしは気づかなかった。これが同担拒否だということに。しかも、大体において、これは推し個人への同担拒否ではなく、推しGを推してる人、もしくはジャニオタ全体への同担拒否なのだ。

 

言ってる意味がわからないと思うので、ここでもう少し具体的な話をしたい(もっとも、わたし自身わたしが何を言ってるのかよくわからない)。

わたしの推しに対する態度は、前述したとおり「人生に潤いを与えてくれるアイドルのエンターテイメントを享受する」というものだ。で、このエンターテイメントを享受する、まではたぶん多くの場合ジャニオタに共有された推しへの態度だと思う。そしてその先ににわたしの場合、「推しへの憧憬」があった。これは人によって異なる部分で、例えば「推しへの恋愛感情」に帰結する人もいるだろうし、わたしは一時期「推しへの信仰」を抱きかけていた。この「推しへの憧憬」と「推しへの信仰」は限りなく近いもので、説明するのが難しいのだけれど、簡単に言うと、推しを「人間」として見るか「神」として見るかの違いだと思ってもらっていいと思う。つまり、推しを「何」として見るかというところに重点が置かれているが、その前の段階まではわたしのなかで「推しへの憧憬」と「推しへの信仰」は同一のものなのだ。

 

ここで、「推しへの憧憬」と「推しへの信仰」の中身として、わたしが普段していることを簡単に説明したい。

 

・推しの仕事を見る

・推しのインタビューを読む

・推しのライフイベントを観察する

 

めちゃくちゃ普通のジャニオタじゃないですか? そうなんですよ。わたしタイプのジャニオタごろごろいるんですよ。だから同担拒否しちゃうんです。

 

わたしは上記の推しへの関わり方を通じて、自分のなかで推しを解釈し、人間をつかみとろうとする。そして、現在は「推しへの憧憬」という態度をとっているため、それをどうかみくだけば自分の人生に引用できるか、もしくは自分の人生観と比して推しはどのような態度で生活に臨んでいるからあんなに素晴らしいのか、を知ろうとする。

この作業は自分の中に「偶像:idol」としての推しをつくりあげていく作業で、世間で言われる推し像とはすこしちがった自分から見た「推し」ができあがる。このステージでの作業はだいたい過去のインタビューや行動を通じて、解釈することが多い。

そして、その作業をある程度終えると、次からはその定理を推しの仕事に援用し解釈するステージにうつる。すなわち、推しの現在進行形の仕事やインタビューと比して自分のなかの「推し」像を調整したり解釈を細部まで深めたりしていく作業だ。そして、基本的には推しを推している状態はこの2つ目のステージでやっている。

ここで、わたしのなかで解釈し再構築した「推し」像は、わたしにとって、「あこがれるべき人間」なわけだが、以前「信仰すべき神様」だった、ということを考えてもらえば、なぜわたしが同担拒否に陥ったのかわかってもらえると思う。

 

みなさんご存知の通り、世界では戦争が絶えない。えっお前なんの話してんの?と思うだろうがちょっと我慢してほしい。

昔から宗教対立というのは、戦争の原因としてありふれたものでもあった。

いま言われるような*1イスラム教とユダヤ教の対立、かつてのドイツ農民戦争ではキリスト教内での宗派が戦争の大義となり得た。

そして、このユダヤ教イスラム教・キリスト教、という3つの大きな宗教では、実は同じ神様を信じているのである。三者は同じ旧約聖書をもち*2、しかし違う宗教を持つ。プロテスタント-カトリシズムの対立なんてもっとわかりやすくて、同じキリスト教で同じ神様を持ち、同じ預言者を持ち、同じ聖書を持つのに、その解釈をめぐって、二者は争うのだ。

 

そう、解釈。

 

わたしが同担拒否をしてしまう理由はここにある。わたしと同じメディアを持ち、同じアイドルを好きなオタクの人と解釈が異なるということに耐えられない。

というか、同担というよりジャニオタ全体に対する態度がこんな感じだ。

めちゃくちゃたとえばかりでわかりにくいのは百も承知だが、先ほどのたとえをもう一度引用し、なおかつわたしが今もアイドルを信仰しているとする。

わたしはキリスト教徒で、わたしのなかでのジャニーズでの神様はジャニー喜多川氏である(顔が見えないから)。そして、アイドルたちは預言者で(だから憧憬する人間たりうる)、彼らがつくるエンターテインメントが聖霊である。わたしはその三位一体を信奉し、聖典を内面化しようとするオタクである。

しかし、このジャニー喜多川氏について、違う聖典を持つオタクがいる。それはイスラム教徒で、オタクたちはジャニー喜多川氏および預言者たるアイドルについて、わたしと違う解釈をする。それは多くの場合、他Gを推していることがその理由になる。プロデュースにジャニーさん以外の雑音が入るのは当然で、我が自担や推しにもあるが、その雑音が受け入れがたい他Gもある。これが、第一の、耐えられないからジャニオタ拒否、につながるところだ。

そして、わたしがキリスト教徒のなかでもプロテスタント*3だとして、カトリックへの同担拒否が生じる。これが第二の同担拒否だ。わたしはアイドルたちへの信仰態度として、聖典に基づくことや、天職に従事することを重視するが、カトリックは教会と伝統を重んじるからである。

これは、同じG(預言者)を推しているオタクが、推し(神・預言者)に対して違う解釈をするということが耐えられない、という心の動きであり、私にとっての第二の同担拒否である。

 

おわかりいただけただろうか。

 

そんなこんなで、同担拒否を発症し、推しに対する他者の解釈を受け入れがたくなってきた。自担についても、他Gについても「この人は!」と思う、解釈の一致する人(=キリスト教プロテスタント、という細かい流派まで一致する人)はたまにいて、そういう人の推しやジャニー喜多川氏の解釈を読んでるのは楽しいのだけれど、いかんせん少ないし、「エイト箱推し」「ろくーん派」「98line」のようにわかりやすくは示せない。

 

だからわたしは今日も、ジャニオタのともだちが欲しい……と呪文を唱えながらブロックするのである。

 

ああ、はやく自担になりたい……。

 

 

 

 

2019.4.20

 

スズキアイコ

 

 

*1:宗教が根源的な原因かは論争があるにしろ

*2:これがどのように機能するかはまた別の話だけれど

*3:具体的にイギリス国教会がどうだとかルター派がどうだとかは省く

ジャニーズに文字通り生かされてる話



おそらく、重軽度の希死観念を持つ人の多くが「ジャニーズなんか聞くやつは自殺したいなんて考えたことないんだろうな」と思うことだろう。

でも、わたしはジャニーズのうわべだけのような言葉に、たしかに生かされてる。そういう気持ちをどうにか表したくて文章にした。なんだか暗くなってしまったけど、それなりに生きています。特にいまわたしを希死観念が襲っているわけではないことをご理解いただいた方が、この記事の後味はいいと思う。




わたしは少なくともここ最近、「病んでる人」にカテゴリーされる人間ではないと思う。精神科医にもかかってないし、過食だってやめたし、寝る前のお酒もほとんどしなくなった。座り込んで便器に向き合う時間はほとんどなくなったし、大学で講義を聴きながら泣くこともなくなった。空いている時間にはジャニーズの明るくメジャーな曲ばかり聞いている。「明日は今日より素晴らしくなる」「世界は変わる」「平和を祈らない人なんてきっといない」。そんな言葉ばかり聞いている。


昨年だろうか、長年続いていた鬱々とした気分がようやく結実したかのように、毎日「死にたい」と思うようになった。この「死にたい」っていうのは実際に手首切ったりODしたりにわたしの場合ならなかったんだけれど、でもとにかく毎日「自分は生きていてもしょうがないからなるべく早めに死んだほうがいいな」という実感を抱えて生きていた。わたしが生きていることで、友人や家族を傷つけている事実があった。たとえば電車が走り込んでくるとき車が行き交う交差点の前に立ったとき大学の学部棟10階で窓が開くことに気づいたときトマトを切る前に包丁を研いだとき。あ、死ねるかもな、という感覚が心を冷やした。


某政治家の「生産性」発言じゃないが、わたしが生きていて何かしらを生み出すとは思えなかった。

世の中の生産性のある人というのは二種類いると思っている。ひとつめは、人類に貢献するような仕事をする人。エジソンとかピカソとか。ふたつめは、自分の身の回りの人を幸せにできる人。

わたしは少なくとも前者に当てはまらないことが大学に入ってようやくすとんと落ちた。わたしは志望校に合格して○大生になったのに、何者にもなれなかったのだ。それは、うっすらとした絶望に似た感触を残した。

となると後者だが、わたしは恋人もできたことがないし友人との関係も口論になって壊してしまった。他人の話を肯定してあげるのが下手くそだ。後者の生産性も期待できそうにない。

わたしは生きているだけで周りを不幸にし得るし何かを成し遂げるわけでもない。そして何より、自分が生きていることでわたし自身が幸せにならない。

それなら、生きている意味ってなんだろう。そんなもの、ないんじゃないか。生きてる意味がないなら、死んだほうがいいんじゃないか。そんなことを一年中考えていた。

そしてその結論が「わたしに生きる意味も価値もない」と、この春だろうか、でた。

それが体に染み込んだとき、わたしはようやく「死にたい」と思わなくなった。


「生きる価値がなければ生きていてはいけない」というわたしのそれまでの価値観が「いま死なないでいるからとりあえず生きている」に塗り替えられたのだと思う。だからいま「なんで生きてるの?」と問われたらわたしはまた「え、死んだほうがいい?」と思うだろう。わたしの心が強くなったわけではないのだ、決して。弱いところを見なくなっただけで。


わたしがいま好きなアイドルは「君は思うよりずっと先に行ける」と言う。「まだまだ終わらない」と「世界はどんどん素晴らしくなる」と言う。

わたしはわたしが思うところまでしかいけないし終わりがないことを希望と思える人ではない。わたしは世界に平和を祈らない人がいることを知っているし、愛は少なくともわたしの人生においてなんの意味ももたらしてこなかった。

けれど彼らの言葉で目を塞いで感覚を麻痺させて、そうやって目の前の小さな人生を大きな航海のように見据えて、ようやく息ができる。わたしの人生に意味があると彼らの歌を根拠に規定する。本当にそうであるかどうかなんてどうだっていい。「わたしには生きる意味がある」と、感覚を麻痺させないと「死ぬべきではないか」と考え始める。でもいま死なないで生きている以上、「死ぬべきではないか」と考える時間は苦痛でしかなくて、それから逃げるためには「生きる意味がある」ことにするしかないのだ。

彼らの歌う世界はこれからどんどん素晴らしくなる。だからそうであると信じる。現実ではないもしかしたらありきたりな彼らの言葉が生活の糧なのだ。

世界が上向きであると信じることでしか、わたしはいま息ができない。ジャニーズの、関ジャニ∞の言葉に歌に生かされている。



2019.3.28

ススギアイコ


二十歳のとき、何をしていたか?~ジャニーズ篇~

POPEYEの「二十歳のとき、何をしていたか?」特集のオマージュを、ジャニーズでやりま~~~~す!!

 

POPEYE(ポパイ) 2018年 3月号 [二十歳のとき、何をしていたか?]

POPEYE(ポパイ) 2018年 3月号 [二十歳のとき、何をしていたか?]

 

 

 

ハタチってなんなんだろうと思う。大人が言うほどこの1年間はわたしにとって特別な時間ではなかった。たぶん、同世代の誰に聞いたってそうだ。しかも、成人年齢だって18歳になるし、20歳っていうのはただの区切りですらなくなるかもしれない。

 

でも、まあ、若かりし頃の象徴として大人にとっては「ハタチ」って言葉が機能しているんだと思う。

そして、わたしの人生の指針たるジャニーズ事務所のアイドルの皆さん。彼らの青春について知ることは、名だたる企業のOB訪問よりも教授の自分語りよりも先輩の酒交じりの武勇伝よりも、わたしの人生にとっては意味がある気がする。

 

というわけで、さまざまなジャニーズの中からわたしの推したちが20歳の時に何をしていたかをまとめた。POPEYEの「ハタチのころ、何してた?」を自明にオマージュしてる。あの特集は例年3月発売だから、それまでに完成させることを目指した。

今回はわたしが書けるのが推しだけだったので、KAT-TUN関ジャニ∞、(タッキー&翼)、KinKi Kidsについて扱った。また、基本的には現在も事務所にいるメンバーのみを扱っている。本当はインタビューして書けたら最高なんだけど*1、そういうわけにもいかないので、その時期の出来事とかをまとめてます。

 

KAT-TUN

個人的エモフレーズ

「永遠ではないときを一瞬でも無駄にはしないと ここに約束しよう」(KAT-TUN、『Peacefuldays』、2003年)

「いつまでもガキではいたいけど、何も知らない子どもではいたくない」(亀梨和也、『non-no』、2006年8月号?)

 

現メンバー

亀梨和也(1986.2.23)/上田竜也(1983.10.4)/中丸雄一(1983.9.4)

旧メンバー

赤西仁(1984.7.4)/田口淳之介(1985.11.29)/田中聖(1985.11.5)

 

KAT-TUNで最もはやくハタチになったのは、2003年9月の中丸雄一さん、次いで1か月後の10月4日に上田竜也さんがハタチになる。KAT-TUNは結成が2001年なので、3年目のことだ。ちょうど中丸さんがハタチになった11日後、「NEWS」が結成される。このころのジャニーズは4年周期のデビューなどが噂されていて、ここでNEWSがデビューしてしまえばKAT-TUNがしばらくはデビューできないことは明白だった。そこで、亀梨・赤西・中丸の3人はジャニーさんに「どういうことですか」と直談判しに行く。中丸・上田は高校を卒業しており、亀梨・赤西は高校を中退していた。もう、ジャニーズ以外の選択肢がなかった。その意味で、ロバ丸にとってのハタチというのは、揺らぎの一年間だったのかもしれない。ちなみに、この年のKAT-TUNは2回目のコンサート「Ko年もAh TaiヘンThank U Natsu」を成功させ、年末には1st写真集を発行している。

そして、2006年、最年少の亀梨さんが2月23日に誕生日を迎えた、1か月後、KAT-TUNはようやくデビューを果たす。このとき彼らは「ハタチになるまでデビューさせない、みたいな噂があった」と語っており、彼らのデビューは「全員がハタチになった」タイミングと同時だった。そのあとのKAT-TUNは皆さんが知る通りだ。夏の24時間テレビまで死ぬほど売れ続ける。亀梨さん個人としては夏に月9「サプリ」主演、24時間テレビスペシャルドラマ「ユウキ」、北川悦吏子・脚本の土9ドラマ「たったひとつの恋」主演、とドラマどくし、めちゃめちゃ忙しく年8日の休みしかなかった年だった*2。また、10月には赤西さんが留学しKAT-TUNの人気に落ち着きが見られるようになる。

KAT-TUNにとってのハタチは、若者らしい人生への不安とともにあっただけでなく、自らの人生が他人の人生を背負い始める、アイドルとしての責任とともにあったのかもしれない。

 

関ジャニ∞

個人的エモフレーズ

「10年後の今日の日もこの場所で手を繋ごう」(関ジャニ∞、『10年後の今日の日も』、2004年)

「胸にHeavenly Psycho 今は未来に向かう道の途中だ 泪にさえも戸惑うことなく願いを歌う」(関ジャニ∞、『Heavenly Psycho』、2005年)

 

現メンバー

横山裕(1981.5.9)、村上信五(1982.1.26)、丸山隆平(1983.11.26)、安田章大(1984.9.11)、錦戸亮(1984.11.3)、大倉忠義(1985.5.16)

旧メンバー

渋谷すばる(1981.9.22)、内博貴(1986.9.10)

 

関ジャニ∞に関しては、年上組と年下組で分けて考えていく必要があるだろう。

まず、年上組。彼らは2001~2002年にハタチを迎える。しかし、おそらく彼らにとっては不遇の時代だっただろう。「8時だJ」「やったるJ」は前年の2000年に終了しているし、「行け行けイケメン」「怖い日曜日」といったドラマラッシュも前年の2000年、2001年の主演本数は他の年に比べて相対的に少ない。また、2001年は東京で後輩たるKAT-TUNが結成され、人気を博し始め、タッキー&翼は2002年にデビューする。金がなくてパチンコ通いをしていた時期やバイトをしていた時期がこの頃かは不勉強でわからないが、そのような泥臭さの中にあったことだろう。

しかし、村上さんのハタチの終わりごろ、2002年にJ3KANSAIから「関ジャニ8」が結成される。年上組にとってのハタチはまさに充電期間、くすぶりつつもあがいて、もがいて、光を追い求めていた時期だろう。

次に、年下組だが彼の中でも結構年が離れている。いま残っているメンバーだけを検討するにしても、2003年11月に丸山さんがハタチを迎えたころ、大倉さんはまだ18歳だ*3。まず、年上の丸山さんがハタチを迎えたころ、それはもしかすると関ジャニ8としては最も辛かった頃かもしれない。主戦力たる錦戸さんと内さんが2003年9月、NEWSに引き抜かれてデビュー、前代未聞の「兼任」が始まる。このころの関ジャニ8の関ジミ3(丸山、安田、大倉)は個人活動もほとんどなかったため、もどかしい思いをしていたころだろう。しかし、2004年、丸山さんのハタチの後半期に関ジャニ∞は(当初関西限定であったにしても)、デビューを果たす。そしてその翌月安田さんはハタチになり、2カ月後、錦戸さんも誕生日を迎える。その月のうちに関ジャニ∞として初めて東京でのライブを行うなど、関ジャニ∞がようやく日の目を見たかと思われた。しかし、大倉さんが誕生日を迎えて年下3人がハタチとなった2005年7月、最年少メンバー・内さんの未成年飲酒が発覚し、内さんは無期限活動休止に入る。ハタチになった関ジャニ∞メンバーに立ちはだかった壁は「ハタチ」そのものだったのだ*4。年下組にとってのハタチは、夢の背中が見えた瞬間でもあり、それと同時に永遠が存在しないということを突きつけられ、大人になることを余儀なくさせられた一年でもあったのかもしれない。

 

タッキー&翼

個人的エモフレーズ

「I’ll be there for you. 繰り返す旅の中 出会えたこの軌跡を」(タッキー&翼、『epilogue』、2002年)

 

旧メンバー

滝沢秀明(1982.3.29)、今井翼(1981.10.17)

 

今回は現在も事務所にいるメンバーだけ触れていこうと思っていたけれど、タキツバに触れずに「ハタチ」を語ることはできないと考えた。

何せ、このビッグカップル(?)はどちらもソロデビューにふさわしい大きな力を持っていたのにも関わらず、ハタチまでその力を温存させていたのだ。2002年5月には史上初のデビュー前海外公演まで成功させてしまう。おそろしい。そして、9月に「Hatachi」というアルバムでとうとうCDデビューを果たす。KinKi Kids以来のデュエットグループとして、歴史に名を残す存在となる。タキツバの伝説はここからまた新しく始まったのだ。

さて、彼らにとってのハタチというのは、まさしくひとつの区切りだっただろう。彼らがそう捉えていたかどうかはさておき、デビューアルバムのタイトルからもわかるように、大人が彼らのハタチに、世界をまったくあたらしく変えてしまうようなアイドル像を夢見ていたのは間違いない。

 

 

KinKi Kids

個人的エモフレーズ*5

「この頃ぼくは、自分についてよく考えます」(堂本剛、『僕の靴音』、1999年)

「Show must go on」(コウイチ、『MILLENNIUM SHOCK』、2000年)

 

堂本光一(1979.1.1)、堂本剛(1979.4.10)

 

1999年。めちゃめちゃキンキが売れに売れに売れていた頃、同学年の奇跡の2人はハタチを迎えた。光一さんは、ステージの上で。

この年のキンキは、1998年12月22日~1999年1月1日の間続いたライブでは初の東京ドームライブを成功させ、「やめないでPURE」「フラワー」などの大ヒット曲を飛ばした。また、(大人の事情で)正式出演ではないが年末の紅白歌合戦にゲストとして出演し、「フラワー」を披露している。

しかしこのはちゃめちゃしっちゃかめっちゃかに売れている中、彼らは今につながる個人としての活動を開始する。光一さんは「SHOW劇'99 MASK」で主演を務め、のちの「SHOCK」につながるライフワークに踏み出す*6。剛さんは「君といた未来のために 〜I'll be back〜」「to Heart 〜恋して死にたい〜」といったヒットドラマで主演を務めるものの、精神的疲労が限界に近づいていく。98年頃にV6の岡田さんと同居していたと公言しているが、そのころの剛さんと岡田さんはさながら明治時代の文豪で、とても暗かった。時代的にも世紀末、不況、とあまり明るい世相でなかったし、それなのにアイドルに求められるのは明るい歌だった。それらの矛盾、苦しみが、のちの剛さんの創作活動につながったことは、ファンならだれもが知る事実だろう。

彼らは過去を振り返るとき、忙しすぎて昔のことは覚えていないとよく言う。光一さんと剛さんにとってのハタチは、おそらく飛ぶように過ぎていってしまった、ただの1年間であっただろう。しかし、それがひとつ彼らのその後にとって大切な時代でもあった。あの頃むちゃくちゃにはちゃめちゃに頑張って走り抜けた結果がいまの彼らだ。

そうだとすれば、いま自分にできること、与えられる試練に向き合う1年が、KinKi Kidsにとってのハタチだったと言えるかもしれない。

 

 

 

それぞれがそれぞれのハタチを歩んでいるなあと思う。

「うまくいっている」「売れている」ように見える人が、それゆえの苦労を歩んでいることもある。「売れたい」「デビューしたい」というもどかしさを抱えながらぐちゃぐちゃになっていることもある。どちらもが苦悩して、必死になって、考えて、やっと答えにもならない明日にたどり着く。でもそれこそが、彼らの人生にとっての大事なピースとなっているんだな、という印象を受けた。

わたしはハタチの一年間にちゃんと向きあえたのかな~とか考えることができたので、やっぱり推しはわたしの人生の羅針盤だと思う。これから先も迷うことがあれば、彼らがいまの自分くらいのとき、どう生きていたかを指針にして生きていきたい。

 

  

もしどなたか、この特集に興味を持ってくださった方がいらっしゃったら、自分の推しの「ハタチのとき」について記事を書いてくださると私の人生がより豊かになるので、ぜひ、よろしくお願いいたします。

 

 

スズキアイコ、2019.2.22

*1:もし私がインタビュアーで、ブルータスで『平凡』を創れるなら、ぜったいこういう特集組むのに……。あと若い子とJ-FRIENDSやYOU&Jとの対談企画……。

*2:2006年、おしゃれイズム

*3:脱退した内さんに至ってはまだ17歳

*4:内さんの話は前エントリーで結構しているので、気になる人はそちらへどうぞ

*5:うまく選べなかった……

*6:ちなみにこの頃の光一さんエグいかわいいので皆さんほんとに見て

片割れを失ったシンメたちについての個人的考察

前置き

ジャニーズにおけるシンメトリーとは何だろうか。

これはジャニオタ永遠の課題であり、私にとっても10年近く向き合い続けてきた問いだ。大人(社長含む上層部)がシンメを措定する。シンメをアイドルが名乗る。アイドルはシンメとして歌い踊り笑う。そうして、ジャニオタはシンメを信仰する。あるいは順番が逆なこともある。ジャニオタがシンメを作り出すパターンだ。

しかし、どのような形でできたとしても、私たちは「シンメ」を信仰する。この信仰について、ジャニオタ以外の人の理解を得るのは簡単なことではない。それくらい特殊なものなのだ。

だから、ここで大事なことは「どうやってシンメができたか」という問いではなく、「どうやってシンメが信仰されるようになったか」だ。つまり、「現存する最古のシンメ」ことV6の「坂長」が生まれたころ、そして現在の最新のシンメ「ふまけん」「じぐいわ」あたりのいま、のシンメは気質が違う。この気質の違いこそが、現行のシンメトリーの性質を示していると考える。

そしてその歴史的経緯について、私は次のように考えている。

 

 

付け加えると、中居さんは自ら「自分が思う木村拓哉のシンメ」であることを捨てた、と私は考えている。中居さんは、「SMAPというグループ」、つまり年上2人と他のメンバーという構成を考えたとき、木村さんとの運命共同体としての道を選ばず、距離をとった*1。それは中居さん自身の選択で、間違っているとは思っていなかったと思う。また、間違っていなかったと私も思う。しかし、それが中居さんの中にひっかかっていたことは確かで、だからこそ中居さんはないものねだりのように「シンメ」を信仰した。

「うたばん」でKinKi Kidsが登場した回にその傾向は顕著に表れていて、上で述べているように「ステージ上で手を繋いで死んでほしい」なんて物騒な言葉で「シンメ」=「運命共同体」という信仰を伝えている。し、おそらくその意識はキンキ本人たちの中にも内面化したと思う。

 

それ以降に関しては、ツイートにある通りなので読んでくださればわかると思う。ここで私がとりあげたいのは、シンメ信仰の始まりは「シンメの喪失」であったということだ。「シンメの喪失」こそが「シンメ」の本質を示すと考えられる。したがって、ここでは片割れを失ったシンメたちについて記述することで、シンメの本質を考えていきたい。

 

片割れを失ったシンメたち

やまとま

山下智久/生田斗真(2002-2003)

伝説的ジュニアユニット「4TOPS」のシンメ。代表曲としては「欲望のレイン(KinKi Kids)」など。圧倒的な顔面の良さで滝沢さんをはじめとした先輩に可愛がられた山下さんと、ひとんあつこくダンスも歌もうまかった生田さんのシンメ。稀代の愛されシンメ。2003年に「NEWS」が結成され、山下さんのデビューが決まったとき、ファンの間に広まった衝撃は「斗真がいない」だったと言う。

この2人の関係性は不思議で、先輩・生田さんと後輩・山下さんではあるものの、多くのシンメがそうであるように、先輩後輩を感じさせない親しさをもつ。しかし、それでも山下さんが生田さんを慕う、という面がどうしてか感じられるのが不思議なところ。そして、山下さんは生田さんがいると本当にうれしそうに笑う。いまその様子が見られるのはカウントダウンコンサートなど、限られた場面にはなったが、山下さんにとっての「シンメ」はやはり生田さんなのかもしれない。

「シンメ」を失ったあとの2人については、山下さんは「NEWS」としてデビューし、その後約8年、「NEWS」のセンターを務める。しかし、6人になったあとのNEWSで、「テゴマス」「コヤシゲ」というシンメが顕在化したのに対し、「P亮」はどこかシンメらしくなかった。コンサートで他のシンメがユニット曲を披露するなか、この2人は(人気メンバーだったからかもしれないが)ソロ曲を披露していた。また、生田さんはその後ユニット・シンメを組むことなく、1人で俳優としての道を歩んでゆく。

2人にとっての「シンメ」の喪失は、ある意味で自分にとっての「シンメ」が相手しかいない、ということの証明だったかもしれない。

 内亮

内博貴/錦戸亮(2002-2005)

関ジャニ8(のち「関ジャニ∞」)のメンバーとして、初期センターを務め、NEWSとしてもデビューしたシンメ。ここから錦戸さんの切ないシンメ史は始まった……。

内さんと錦戸さんは、ただしく、2人きりのシンメだった。NEWSと関ジャニ∞の兼任という前代未聞の役柄を走っていたのは2人だけで、その意味でお互いの理解者はお互いしかいなかっただろう。錦戸さんは内さんより先輩だけれど、末っ子根性のある錦戸さんは内さんと先輩・後輩ではなく甘え、甘えられる関係を築いていた。

しかし、2005年、内さんは未成年飲酒でNEWS・関ジャニ∞を謹慎処分になり、その後両グループを脱退する。この2人について、メンバーは8周年のパンフレット「Dear Eighter(2012)」でも、「内が抜けたときは亮が一番辛かったんじゃないかな、とは思う(渋谷)」「(内さんの脱退に関して)やっぱり錦戸はさ、ドラマ(「がんばっていきまっしょい」)も一緒にやってた最中やったし、めっちゃ悔しかったやろなって思うなぁ(横山)」「(ライブ楽屋に謝りに来た内さんを『本気でしばいてしまった』錦戸さんに)オレが『やめろ!』って言ったら『お前にはわからんやろ!』って言われて、心の中で“確かに分からん”って思ったもん(大倉)」と語られ、メンバーからも関係性を特別視されている。

その中でのエピソードはそれぞれ調べて頂くとして、その「シンメの喪失」のあとの2人はどうなったか。まず、内さんは「PLAY ZONE」で復帰を果たし、「一瞬の風になれ」で錦戸さんと共演を果たすも、関ジャニ∞にもNEWSにも復帰せず、ソロでやっていく道を選んだ(または会社の方針がそうだった)。そして、錦戸さんはジャニーズwebで「内頑張ろうな、おれらは待ってるから」と(縦読みで)書くなどしていたが、前述の「Dear Eighter(2012)」では内さんを振り返って、次のように語る。

「(大倉さんには演技上のライバル心はないが)やっぱり内にはあったよ。NEWSのころから“とりあえずオレは、コイツより上に行かなあかん”って思ってた」「内が復帰した舞台観に行ったんやけど、もう途中から涙が止まらなくなっちゃって」「でもこの話はいつかオレの口から絶対せなあかんと思ってた」「だからね、オレはEighterのみんなに言おうと思ってる。『8人目の関ジャニ∞はあなたです』って。もう、堂々と言っていくから」

錦戸さんはここで、内さんというシンメの喪失を、メンバーの喪失として自分の口から語り、分節化した。8人の関ジャニ∞を、自らの手によって、区切りをつけた。自身のキャリアから内さんを切り抜く決断をしたのだ。

赤亀

赤西仁/亀梨和也(2001-2010)

正直、赤亀の始まりをKAT-TUNの始まりとしていいのかはわからない。同期入所で幾度となく雑誌で組まされた上でのKAT-TUN結成だったからだ。

因果な2人のエピソードについては以下の記事でほとんど網羅的に書いたので、どのようなシンメだったのかは以下から推してはかってほしい。

 

jys123.hatenablog.com

この2人は、それこそ「KinKi Kids」に焦がれた、黄金期の典型のようなシンメだった。そもそもKAT-TUN堂本光一のバックダンサーとして結成されたグループであり、(先輩の覚えはめでたくなかったにしろ)「ジャニーズとしてのかっこよさ」はKinKi Kidsの中にこそあった。「Bonnie Butterfly」をはじめとする様々なKinKi Kidsの曲をカバーしていることからもわかるように、彼らはKinKi Kidsによって育ったシンメである。正反対で、仲がいいんだか悪いんだかわからなくて、でも隣に並ぶと圧倒的オーラがある。そんなシンメ。おそらく赤西さんの留学を機にKAT-TUNの人気が落ち着いたことをきっかけに、2トップ売りは鳴りを潜めたが、それでも「DON'T U EVER STOP(2008)」は綺麗なシンメ割りだったし、赤西さんの脱退まで、KAT-TUNにおけるシンメ信仰は続いた。

では、シンメ崩壊のあとはどうなったか。

赤西さんはアイドルという道を違った。そもそも、KAT-TUNの脱退自体が、赤西さんにとってのアイドルの終わりを示していたのかもしれない。つまり、赤西さんにとって、シンメの喪失は、自身のアイドルとしての営みの終焉を示していた。一方で亀梨さんは、赤西さんについて、「KAT-TUNという船も、お互いの夢や目標のため、船に残る者と離れる者に分かれるけど、心は常に繋がっている。絆は変わらない、と思えたんです。(「MORE」2011年4月号)」と語ったり、ライブの制作記者会見で赤西さんの話題ばかり振られることに苦言を呈するなど、いくばくかの特別な関係を見せていたが、2016年からの充電期間を終えたあとは、フラットに見える。また、興味深いことに、同グループから田中さんが脱退し、田口さんがシンメを失ったあとも、亀梨さんと田口さんは1+1の関係を保った。KAT-TUNにおける信仰されるべきシンメは、ずっと変わらなかったということだろう。*2

P亮

山下智久/錦戸亮(2007-2011)

この2人のことは、シンメと呼んでいいのかさえ曖昧だ。しかし、6人だった4年間のNEWSにおいて、他の2組のシンメをのぞいたらやはりこの2人が余るので、必然的にシンメだったのかなと思う。

なぜ、この2人をシンメと呼ぶことに抵抗があるのかは、正直うまく説明できない。山下さんにとってのシンメが生田さんであり続けたのは前述の通りだが、錦戸さんのシンメは内さんというシンメの喪失後、渋谷さんになった。それが渋谷さんであって、山下さんでありえなかったということの意味が論理だてて説明できないのだ。

彼らは同時にNEWSというグループを脱退し、シンメも自然と解消された。しかし、その後2人が共演する場面(昨年「8時だJ」など)を見てもすごくフラットな関係に見える。

この2人は「信仰されるものとしてのシンメ」というここでのシンメの定義に照らし合わすと、シンメではなかったのかもしれない。

でんでん

田口淳之介/田中聖(2001-2013)

KAT-TUNで唯一完全に失われたシンメ。田中さんが2013年に脱退するまでの間、つかず離れずの関係を保ってきた2人である。この2人は、赤亀のように劇的なシンメではなかった。しかし、同じく正反対の2人ではあった。そして、KAT-TUNというグループはシンメがしっかりはっきりしているグループなので、この2人がシンメであったことに異を唱える人はおそらくいないだろう。

では、このシンメの片割れが失われたあとは、どうなったか。その経緯は、田中さんにメンバーが何度も助言をし、しかしそれでも脱退した、という円満とは言えないものだったが、田口さんは赤西さんに対してもそうであったように、感情をあらわにはしなかった。

そして、田口さんは理由を伏せたまま*3、2016年、KAT-TUNを脱退する。前述の通り、それまでの約3年間、田口さんは他のメンバーをシンメとすることはなかった。シンメは完全に失われたまま、KAT-TUNから失われた。

きまずい

渋谷すばる/錦戸亮(200?-2018)

関ジャニ∞での錦戸さんの2番目のシンメ。先輩-後輩でもあり、錦戸さんはすばるさんを敬愛していたし、すばるさんはボーカリストとしての錦戸さんを自分と嗜好の違う、しかし同等かそれ以上の存在として尊重していた。

この2人をシンメと呼ぶかどうかには論争もあるかもしれない。関ジャニ∞KAT-TUNに比べてコンビがはっきりしていないグループでもあったからだ。錦戸さんのシンメとしては安田さんを挙げる人も、丸山さんを挙げる人もいるだろうし、すばるさんは唯一であってシンメではなかったと言う人もいるだろう。

しかし、私は次の2つの理由からすば亮はシンメであったと考えている。1つ目は、「十祭」でのコンビ曲割り。これは「王道」が意識された構成となっており、「ヨコヒナ」「倉安」という組み合わせであり、それに加えて「すば亮」がコンビ曲を歌っている。2つ目は、昨年の渋谷さん最後の関ジャムでの錦戸さんのコメント「すばるくんとは関ジャニ∞でもずっと2人で歌ってきたのでジョンとポールとまではいかないけれど感慨深かった」。錦戸さん自身がすばるさんを自身のシンメと捉えていたということなのではないかと思う。

このシンメの片割れが失われた時、それは関ジャム生放送だった。最後の「LIFE~目の前の向こうへ~」をうたったとき、錦戸さんは大号泣し、すばるさんは涙をにじませながらも最後まで気丈に振る舞った。そして、この放送が終わったあと、錦戸さんは一番にすばるさんにメールを送ったと言う。「これからの関ジャニは僕が引っ張って行きます」。そしてすばるさんはそれを「一生忘れません」と言った。これがすばるさんについて我々が知る最後の言葉で、彼がそのシンメを失ったあとどう生きているかは不明だ。

一方で錦戸さんは、彼に送ったその言葉の通り、「これからの関ジャニ」を作る上でのキーパーソンとなっている。最新DVDの初回限定盤DISC3のドキュメンタリーからもわかるように、音楽的にも精神的にも「すばるさんの欠けた関ジャニ∞」を補完するために大きな役割を果たしている。つまり、錦戸さんはシンメを喪失したあと、現在に至るまですばるさんの存在を自分の中に取り込み、メンバーやファンの中にある穴を埋めようとしている。これは、他のシンメには見られない特徴であり、もしかするとシンメを幾度となく失ってきた錦戸さんだからこそ、見られる傾向なのかもしれない。*4

 

 

タキツバ

 滝沢秀明/今井翼(2002-2018)

昨年解散したシンメであり、グループの「タッキー&翼」。

この2人はわかりやすく、自ら選択したシンメだった。 滝沢さんがソロデビューではなく翼さんとやりたいと声をあげたのは有名な話であり、それによってタキツバはKinKi Kids以来のコンビとしてデビューした。ぎこちない時期があったのも確かだが、お互いをすごく大切にしていて、ド派手な誕生日会は語り草だ。

そして、タキツバというシンメの片割れが失われたとき、つまり、翼さんが芸能界引退を示したとき、滝沢さんは同じく引退を示した。翼のいない芸能界に興味はない。そんな意志は、彼らがシンメであった、しかも信仰されるべき対象という意味でのシンメであったことの証左に他ならない。もしかすると、この20年の間で、最も完璧なシンメはタキツバだったのかもしれない。

 

まとめ

ここまで、片割れが失われたあとのシンメについて記述してきた。

ここでわかったことは、片割れが失われたあと、残されたシンメは変化を余儀なくされるということだ。それは彼自身の脱退や引退を意味することもあるし、他のシンメの発見を意味することもある。いずれにせよ、シンメというのはビジネス上の関係であるにも関わらず、失われたあとはその人のキャリア、ひいては人生に大きな影響を与えているということになる。

つまり、ジャニーズにおけるシンメというのは、信仰されるべき運命共同体としてのシンメである限り、お互いの人生にまで大きな影響を及ぼし合うものである。それは、どのような経緯でその姿になっているかに左右されない。それを左右する要素があるとすれば、2人が上記の意味で真にシンメであったか否か、それだけである。

 

*1:たしか、本人のインタビューか何かで「バランスを考えて距離をとった方がいいという話をした」という文脈があったと思う。出典忘れたけど

*2:余談だが、赤西さんとも亀梨さんとも仲が良かった山下さんは、ふまけん(Sexy Zone)の仲を取り持ったことで知られる。彼の視界にあった赤亀という稀代のシンメが彼の行動にいくらか影響したのではないかと邪推してしまう。

*3:「僕にはアイドルは荷が重かった(Myojo)」とも言及はしているが、曖昧なままだった

*4:すばるさんは内さんの脱退について、「内が抜けたときは亮が一番辛かったんじゃないかな、とは思う」と認識していた。自分が錦戸さんのシンメであるという認識があったとするとそれを再び錦戸さんに与えることを理解していたわけで、それでも選んだ道を可愛い後輩でもあった錦戸さんに「背中を押すしかない」と言われた/言わせたことはどんな痛みを伴っただろう、と考えてしまう。それが分かった上での選択であったにしても